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[コメント] のぼうの城(2011/日)

「でくのぼう」という物言いは、本人の外側からの印象や価値観から一方的に下された人物評であり、本作の主題はその印象や価値観の転倒であることは想像がつく。であれば、本作は何より主人公を取り巻く人々の「視線」を描いたものでなければならないと思う。
おーい粗茶

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愚鈍に見える人物が、実は案外それだけではない、どこかつかみどころのない才能を秘めた人であったというギャップを観客に共有してもらうためには、友人、敵将、親、領民などさまざまな方面の外側からの視線の先に像を結ぶように主人公を描いてみせることしかできない。「本当は才のある人だったんだ」「一筋縄ではいかないくわせものだ」とは、外側の最初の誤解から発しているのだから、本人側から決して描けない物語だ。監督の演出は、この視線の処理がうまくさばけていない、というより、監督が重要視していない気がする。極端に言えば、長親の心情や主観によった描き方が多すぎて、「一見無能そうだが実はすごい人」という描写があんまりうまくいってないない気がする。野村萬斎が初手から「何か秘めてそうな人」オーラが出まくっているように感じるのは、演出のそういった制御の仕方にあるように思う。

また、その主人公の魅力は、圧倒的な権勢を誇る中央集権へ刃向かう地方自治体という対決構造の痛快さの中に描かれなければならないが、いったんは強大なものに立ち向かう絶望や悲壮さがあまり効いていない、簡単にいうと最初から負ける印象がなかった。こういうのも物語の中の人物たちのベクトルが四散してしまっているような描き方の欠陥があるように思う。(もしかするとこの監督は一人称のドラマ以外に興味がないのかなあ、2作品しか観たことないのでよくわからないけど。)

で、樋口監督は樋口監督で好きなことをやっている(やらせている)。萬斎はもちろんあの小舟のシーンでその芸を存分に発揮している(させている)。そう思うと、佐藤浩市や成宮寛貴やぐっさんや榮倉奈々も、ほぼその役者の最もそれらしい役柄をやっている(やらせている)ようにも思えて、全体的に監督の統制がなっていないような印象だった。

エンディングの現代パートの入れ方は好き。

(評価:★3)

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