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[コメント] 野火(1959/日)

あくまでそれは異常時だからこそ、という主張。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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塚本晋也版を見た後に鑑賞。本作の最後、超えてはいけない一線を超えた兵士を裁く主人公が最後自らも裁かれて戦地に死ぬ、という結末を見て「私はそれでも人間性というものを信じたい」という監督の意志が感じられた。あくまでも戦争で、飢餓で、追い詰められて人間は狂ってしまうのだ、という考えは、食料のために殺人を犯す人間を止めずに見ていた主人公に生きて帰ることを許さなかった。それは時代の受容度の問題もあるだろうが、あくまで「異常時であったこと」が前提であるという考え方だと思う。

肉体と精神をパンクとして描くことに問題意識の高い塚本版は、結局何でリメイクしたのかというと、人間性や理性なんてもっと全然チョろいもんだということをどうしたって言わなきゃならないからだったと思う。戦後65年人間は歴史的に「正常」を生きてきた筈なのに、人を快楽や独善的な理由で、ふつうの人にはわからない理由で人を殺し続けてきた。それはこれからもおそらくずっと続くだろう。なんなら昔より社会の規制が薄くなった昨今、もっと独善的に振る舞う奴は増えるかも知れない。

塚本版は理性とか人間性なんていうものを全然信じていないという、作者の一貫した主張(関心事)の上に作られていて、本人のやりたいことをやっている感が出ているのに対し、市川監督はこの題材にそもそも関心を持っていたのか疑わしいほど、低温度な印象がする。本人の問題意識はどこにあって、それが本作にどう重ね合わされているのか? 兵隊同士の会話の台詞の抑揚などに、お互いがお互いのことをちゃんと仲間として認知している感が出過ぎな気がする。彼らがふつうの人間であって、人肉を食らう兵士は狂っている、ということを言いたいための対比だとして、それじゃ同じ戦争という異常時に人間性を保ったものと、失ったものの差はどこにあったのか? 狂気の根拠が異常時だというなら、その違いに迫るべきなのに、肝心のそこをスルーしていておかしい。お互いを仲間だと思っているうちは相手を食い物だとは思わないだろう。塚本版はまずほとんどの兵隊が、相手を仲間だと思わなくなるステージに陥る様を描いている。そこから先は個人の差という印象だ。そのほうが納得がいく。本作はそういうステージが描かれていないのでいまちピンとこないのだ。実際の戦地での日本兵の様子がこうだったのかも知れないけど、創作物としては主張を詰め切れていない気がする。

(評価:★3)

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