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[コメント] キューポラのある街(1962/日)

この映画に狡い所があるとしたら、彼女が貧困から抜け出すのにその美貌を利用しようとしないところかな。邦画のそういうところが好きです。
G31

 この両親(東野英治郎杉山徳子)は「ジュンは頭がいいからできれば高校に入れてやりたい」とは思っていても、「この子は顔立ちが可愛らしいから芸能プロダクションにでも入れて・・・」などとは絶対思ってない。つまり吉永小百合の美貌は、この映画では純粋に”映画的善”の体現として利用されているだけ。もしブサイ子を起用していたら、現代的な意味でのリアリティは獲得できたのかもしれないが、かえって屈折とか病弱とか怠惰とか、別の意味を背負ってしまいかねない。善悪の話ではなくて、貧困が切実な問題だった時代はこういう描き方が有効だったってこと。私なんかの世代だと、こういう感覚はなんとなく分かるんだけど。ってか、そもそもこれ、映画だし。

 あと一つ。この映画に共産主義の匂いを嗅ぎ取る心情は分からなくはないけど、むしろ同時代の先鋭的左翼なんかからは、保守反動とかって批難されるタイプの映画じゃないかな。労働組合の意義を現世的利益から説いてるし。世の中に起きる事件って先鋭的なものだから、事件史だけで世を見ると、先端だけで時代を判断することになりかねない。大多数の国民は、それらの事件には傍観者として存在していたという自明の事実を忘れちゃいけない。この映画が公開された年の2年前は、60年安保の年、つまり日本が最も左傾化していた時代の一つだけど、それでも日本国民は、浅沼”庶民派”社会党ではなく、池田”所得倍増”自民党を選択している。そんな、したたかな体制派に寄り添った映画のように思うんだけど。

 社会の矛盾を連帯によって乗り越えようという発想は”左”から受け継いだのかもしれないけど、矛盾の責任を権力になすりつけるという安易さに陥らないバランス感覚が、この映画を不偏的なエンターテイメントにしている要かな、と。

85/100(04/08/22見)

追記)野田先生=加藤武の仇名が”スーパーマン”なのだが、このニュアンスがまったくわからん。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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