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[コメント] 光の雨(2001/日)

二重構造でしか描けないテーマがある。世代間の凄まじい侮蔑の対立を表現した恐ろしく挑戦的な脚本に問答無用に敬服。ただ脚本だけですけど・・
sawa:38

噂には聞いてた「二重構造」。鑑賞前は卑怯な手法だ。何故、真正面から事件と取り組まないのか?とやや斜に構えた気持ちで見させていただいた。

私は事件のあった当時は小学生で、一世代後の「去勢」された世代にあたる。「彼等」の世代は「恥ずべき世代」として世間の評価が確定した後のバブルな青春を送った世代である。

「彼等」は二通りに分別される。運動を先鋭化し、民衆から遊離した革命を目指し、勘違いし挫折していった者。もうひとつはファッションで運動に参加し、熱が冷めるや髪を切って大企業に就職していった者。

私たちの世代からみると、どちらも侮蔑の対象として見ている。そして「彼等」もまたひと世代下の私たちを「能天気なノンポリ」として嘲笑の対象としていることだろう。

子供ながら当時の空気を知っている世代ですら違和感を覚える「彼等」の世代。ましてや事件後に生まれた若い世代の人間には、別次元の出来事としか映らないだろう。ジェネレーションギャップというよりも、単純に「わからない」という言葉がキーワードになる。

この作品ではそれをあまりにもストレートに表現した。

当時も「彼等」に違和感を覚える同世代の若者は多くいた。そういった若者は「ノンポリ」と称され軽蔑の対象にされた。「ノンポリ」を作中に登場させ、活動家たちと対比させるような安易な手法も選択肢のひとつだったろう。だが、ノンポリは文字通りノンポリシーだったり、「興味がなかった」のであり、「わからない」のではない。

まさに一世代を超えただけでまるで異星人を見るような違和感を表現するにはアノような二重構造の作品しか手法がなかったのかも知れない。当初は当時の素性を隠しノンポリを自称する監督の登場で、陳腐なるものになりかけた作品を監督を早々に排除する事で、対比の軸を鮮明にしていく。旧世代の監督が描けばレクイエム・アンソロジーになりかけるものを、若い世代の監督が「わからない」まま撮る。

若い監督は「革命戦士とは何か?」こんな訳のわからない愚問に撮影を中断する事などしない。あっさりと通過する。この「あっさり感」がすべてを表しているんじゃないか。この「あっさり感」は当時と現在とを本作のような形で対比させるしか方法はなかっただろう。やはり本作の野暮な二重構造は唯一無二の手法だったと確信した。

追記

私たちは「革命戦士」などという単語に意味は持たない。知ろうという気にもならない。私たちはこのリンチ事件が主犯の永田洋子の嫉妬深さとサディスティックな性癖によるものである事を単純に理解している。彼女がもう少し美しくあれば、ここまでの惨劇が起こらなかったであろう事も知っているからだ。

あの運動や事件に参画した当時の若者たちは、それを否定するはずだ。作中でトラウマを抱えた元監督のように「革命戦士とは何か?」などと哲学めいた逃げ道を準備する。

アノ運動に参加したのが、ファションに似たただの流行だったり、アノ事件がただのサディスティックな三面記事に成り下がる事は、自分たちの青春を全否定する事に他なら無いからである。

ただ、あのように全てを賭けて何かに打ち込めた世代に対し、私が侮蔑の念を強く感じるのは、裏返せば「羨ましい」という自責の念である事も告白しておく。

(評価:★4)

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