[コメント] ディスタンス(2001/日)
いつでもどこでも人と繋がっていられる携帯電話は、コミュニケーションを促進したのだろうか? と、ふと思うときがある。仮に、考え方を異にする者同士が理解し合おうとする行為をコミュニケーションと定義するなら、コミュニケーションにおいて重要なのは言葉や文章以上に、沈黙と行間だ。何故なら沈黙と行間こそ、相手との本質的な差異であり、まだ理解し合えていない領域そのものだからだ。ところが携帯電話的コミュニケーションは沈黙を嫌い、自分と相手の距離を言葉で埋め尽くそうとする。会話の停滞と意味の不通を何より怖れ、語彙を両者の公約数に留めるべく絞り、お互いの差異を切り捨て、行間を黙殺しようとする。相手との葛藤を経ての理解ではなく、お互いの差異を隠蔽しての安易な同調を指向する。本来はコミュニケーションの目的である筈の部分が、本末転倒にも遠ざけられ、相手への秘密として沈着する。
自分はよく沈黙するし、会話を停滞させる。喋りたいことがなければ喋りたくない。だから沈黙を嫌う相手をよく戸惑わせるし、そういう相手には気を使う。自分にとっては、沈黙は全く苦にならない。むしろ喋る必要がないときは延々と押し黙っていていいような人と一緒にいたい。はっきり言って、携帯電話的コミュニケーションが苦手なのだ。逆に映画が好きなのは、映画がそういった携帯電話的なコミュニケーションとは真反対のメディアであり、文化だからだ。文芸であれ、娯楽であれ、突き詰めれば、どんな映画も未知のコミュニケーションを指向し、存在する。どんな映画でも、登場人物達はそれぞれの行間を抱え、時に沈黙し、葛藤する。たとえ、その先に出てくる結論が嘘っぱちでしかなかったとしても、映画は新しいコミュニケーションを模索する。それが現実に取って代われない虚構の、現実に対するアイデンティティーだからだ。
ただこの映画は、携帯電話に似ているように思う。リアリズムを気取る全ての言葉は、一見印象的なようで、全く心に残らない。全てのキャラクター達が、自分がよく戸惑わせるタイプの人々だった。彼らは携帯電話が使えなくなったあの晩も、ついに携帯電話的コミュニケーションを停止することはなかったし、映画らしいコミュニケーションは何も見られなかった。最後まで決定的な沈黙と葛藤を拒絶していた。ディスコミュニケーションに開き直り、ろくな虚構を実践しない映画に、何の価値があるというのだろう? 悶々と展開される現実模写だが、カメラにはカメラを向けた場所のものしか写らない。カメラを向けない場所のものは写らない。切り取った現実は、現実の全てではない。自分には、この映画のファインダーの外側に、ディスコミュニケーションに悶える誰かが見える。理解しようと悶え苦しみ、それでも理解できず、諦めかけては、また取り憑かれ、再び理解しようとのたうち回る誰かが見える。
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