[コメント] 暗殺の森(1970/伊=仏=独)
映画を見終った人むけのレビューです。
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地に這い蹲るようなショットで捉えた、風にカサカサと吹かれる枯葉だとか、路を歩く人物を、思いっきり斜めの構図で捉えたショットだとか、平凡にするまいと妙にリキが入っているのが、観ていて滑稽。平凡でありたいと願う主人公が平凡であり得ない様を描くこの映画の、平凡さを寄せつけまいとする努力が却って平凡な才人の粋がりに見えたり、その衒ったユーモアやセンスもまた、フェリーニの模倣者に見えたりといったところが何だか皮肉で、気持ちを醒まされる。
主人公は、暗殺者としての役を果たすこともできず、さりとて裏切り者ともなれず、愛する女が助けを求めるのも、車窓越しに傍観しているしかない。彼の標的であった筈の教授は、眼前で、森のどこからともなく現われた集団によって惨殺される。このシーンは、これに先立つ、パーティでの群舞に取り巻かれながらも、その歓喜の渦に加われないでいるシーンや(この会場の窓枠が赤く縁取られていることで、外の青い薄闇との対照が美しい)、ラストシーンでの、凱歌を合唱しながら行進する群集が、傍らを通りすがるのをただ傍観しているしかない様などと、同一の主題を奏でている。
暗殺という行為の輪に加われずに終わる主人公。暗殺という計画を抱えているが為に、輪舞に加わることも、その場の感興を共にすることも叶わぬ主人公。暗殺という、他者から隠されるべき行為によって、ファシストという、「その時代の」集団に溶け込もうとする矛盾。少年期に殺していたと思っていた男が生きていたことで、犯していた筈の罪が最初から無かったのだという結末は、「あらゆる罪を犯しました」と神父に告白した彼が平凡さに溶け込もうとしていた努力の虚しさを告げる。
主人公は、少年期に、ズボンを無理に脱がされそうになる虐めという形で、集団からの疎外と虐待を受けていた。そこから少年を離脱させた運転手は、彼を同性愛の対象としようとした。幼い性的対象として搾取されることと、集団からの孤立。主人公の行動は、そこから逃れる為のもの、という構図になっている。思えば、彼の母親もまた、若い、息子のような年の運転手を愛人にしていて、主人公は、同志にその運転手を殴打させていた。盲目の友人は言う、「普通、人は他人とは違うと見られたがるが、君はそうじゃないんだね」。他人と変わらぬ平凡な生活を望んで、プチブル的で凡庸な女と結婚するが、その女もまた、少女期に60歳にもなる男によって、幾年も性的に搾取されていたことを告白する。しかもその男は結婚の立会人だったのだ。だが、主人公は、この告白を受けて、女と契り合う。皮肉なことに、この告白によって初めて二人は、同じ運命を背負った同志としての関係を結び得たようだ。その一方、かつて愛したらしい女との再会は、彼女が、暗殺の標的である、父親ほども年の離れた教授の妻となっている、という、宿命的な状況を伴っている。
集団からの疎外という意味では、盲目の友人の杖としての役を果たすという形でも、マイノリティの側に立ってもいる。それは彼の一抹の良心のようなものなのかもしれない。反面、盲人たちのパーティでは、彼一人が浮いている。「目明きの人間がいると皆、神経質になるんだ」。主人公は最後には、盲目の友人を見捨て、彼を、既にマイノリティ、被迫害者の側に回った「ファシスト」として名指しし、周囲の人間に向かって告発する。尤も、その周囲の人間の中に、他でもない、少年期の主人公を犯そうとした男がおり、貧しくて猫を食らっていた青年(少年期の主人公のように、弱者の立場とも言える)を誘っていたのだ。最後に一人きりになった主人公は、この青年が流すレコードの歌に耳を傾けているようであり、結局はマイノリティであらざるを得ない運命を、その身にのしかかる闇と共に受け入れた敗残の姿を晒す。或る意味では、宿命を受け入れたことによる救済のようにも見えなくはない。
盲目の友人の許へ向かう主人公を見送った妻は、停電に見舞われる。闇に生きる友人の許へ向かう主人公との、同一性と対比(主人公は、闇に生きる友人を支えることを拒むが、妻は、自ら闇の中で光を求める)。冒頭のシーンで既に、主人公は、緩やかなリズムで点滅するネオンの光によって、断続的に訪れる闇に身を委ねていた。
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