[コメント] 太陽はひとりぼっち(1962/伊)
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ライフスタイルという言葉からは無縁の存在として描かれるヒロインの一挙手一投足に目を奪われる。スクリーンに映し出されたものからストーリーを読み取ろうとする左脳と、ただただビッティという女優の形作るフォルムの心地よさに酔う右脳がせめぎあう。
ビットリア(役名)は、翻訳家という知的職業に就いていながら、エスタブリッシュメントとは次元の違う精神世界に身を置いているようである。まるで表現欲求を持たない芸術家のごとく、知性と感情を揺り動かすなにものかを求めて止まない心の動きは、しばしばフレームの内部/外部に視線を移動させるという動作で表現される。窓の外の風景を見る、額に飾られた風景画を見る、あまつさえ、終盤のドロンとの戯れでは、自らをガラス戸の枠に入れてみたりもする。
ドロンの生家に足を踏み入れたときのシーンはとりわけ示唆的だ。洋服の肩の部分が破れ、身を抱くような仕草のまま部屋へと入った彼女は、そこに飾られた先祖の写真に倦厭するように窓外を見下ろす。支度中のオープンカフェ、人気の少ない大通りといった彼女の見た目ショットに続いて、建物の外側から窓枠の中に納められた彼女自身のショットが連なる。アパートの上階という高度で窓枠を行き来する、心象描写にしては非常に風通しのよいシーンである。
ドロンとビッティの関係は、彼ら自身も含め観客の誰もが予見したように、その端緒で終焉する。エンディング、二人を欠いたアーキテクチャーの圧倒的な現実感をどう受け止めたらいいのだろう。この唐突な一連の映像はしかし、映画作家によって注意深く構成されたシーンの一部分であると知性が告げる。そうであるなら、すべてのショットには演出上の意図があるはずだという結論に至る。もしかしたらこれは、ビットリアの見た目ショットのリプライズかもしれない。このように世界を見ること。意味を問うことの意味が「わたし」に突きつけられた瞬間、ただなんの手がかりもなくここに取り残された孤独に恐怖するのである。
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