[コメント] デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!(2000/日)
(テレビ版等をまったく知らない者の、プログラム・ピクチュアという前提を無視した、此の一本だけに対する御託と思って、どうかご容赦を――)
純粋に映画として面白い。IGの『BLOOD:THE LAST VAMPIRE』なんかと比べても要領が良く、密度が濃い。40分で「終末」を醸成し、伏線を張りつつ、起承転結を施しながら、ネット内ワールドにリアリティを持たせるために敢えて現実の描写を疎かにしないばかりか、昨今の「家族」の現状に対する皮肉に結びつけてしまう演出家のCPUは尋常ではなく、またそのためのカットバックの使い方など実に小にくい。彼女(?)との仲直りという枝葉も、極めて効果的。個人的には、短尺化が進んでいるゴジラのスタッフにも参考にして欲しいところ大だ。
ただ一方で、これを子供のころの自分がリアルタイムで見ていたなら、物凄い劣等感と焦燥感に駆られと思う。母親さえ声をかけられないようなオーラを放ちながら、独立した領域に生きる彼ら。「その世界」に対して必要な知識、認識はとうに子供のそれを越えており、然るに彼らも完成された人格を要求され、また満たすべく一部の隙もない人生を歩んでいる。このような「大人な」子供は、アニメや漫画の世界では珍しくないのだが、大抵の場合そこがファンタージーワールドであるという前提や、あまりに現実離れした人物造形が逆説的にワンクッションとなり、子供は「その世界」を無事に異化することができる。ところがこの映画における「その世界」は限りなく現実的であり、登場人物たちも笑い飛ばせる造形にはなっていない。
つまるところ子供の俺が見たとしたら、コンピューターに触れもしない自分自身に悔し涙を流したんじゃないかと思う。
それに関連して、一つ欺瞞を感じたカットがある。それはネット観戦している人達の描写だ。ネットがテレビと同じく大衆にとって平等になるなどまだまだ先のことだ。普及率の数字は、リテラシーを巡る、使いこなせる者と使いこなせない者の二極化を反映していない。つまり、この映画では観戦する者さえ選ばれた者たちであって、それ以外は終末を認識することさえ許されない。一見文化系少年のための題材のようだが、選ばれた者しか描いていない以上、『巨人の星』みたいな体育会系の代物とどこが違うのか?
それなら題材がなまじネットという現実的な代物ではなく、いっそファンタジーだったら良かったのかと言われても、それは作家がしなかったろうと思う。活躍する能力のない盆暗たちには目配せもしない一方で、作家の世界観構築、或いは現実と虚構の境界線打破への欲求は半端ではない。現実と虚構を繋げた後、作家は主人公達には何もさせなかったが、不思議なことではないかもしれない。というのも、作家のモチーフは、主人公達をして観客たる対象年齢が感情移入する器として観客の代わりにアクションを起こさせることではなく、ただ現実と虚構の境界線を打破するその一点にあったのではないか?
この作家は、子供のことを理解し切れないながらも子供のことを第一に考えて造る「大人の」作家とは違う気がする――と思っていたら、作家が学生のころは「アニメは観ないで、ゴダールなどばかり観ていた」という話を聞かされ、小さな確信を得た。ヌーベルバーグの作品は、商品としての意識が良くも悪くも限りなく希薄であり、意に反して大向こうの好みを取り入れるという葛藤を持たない。作家の好みが全てのジャンルだ。そういった意味では、自分は、芸術性に対する評価の一方で、ヌーベルバーグの作家を「子供な」作家だと思っている。だって、テメエの好きなことしかやらねえんだもん。ちなみに、この映画の作家にも同じ傾向を感じた。「子供が何を見たいか?」ではなく、「自分が何を見たいか?」を最優先する演出と感じた。前者と後者が合致している部分はいいが、もはや図体のでかくなったアダルトチルドレンが子供用のプールで暴れているかのような軋みも感じられた。徹頭徹尾「現実」を舞台に、子供という概念をうち砕くほど自立した子供、大人が蚊帳の外にしかいない設定――皮肉ではなく、肯定なのかもしれない。大人はいらないよ、という。
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