[コメント] キートンの西部成金(1925/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
それは殊にキートンが得意とした「からくり屋敷もの」とでも称せる諸作によく見出せるが、ここでも樽滑りギャグなどにその原理が顕著だ(キートンの他で「メカニカル」を字義通りに捉えたギャグが著名な映画としては、まずチャールズ・チャップリン『モダン・タイムス』が挙げられるでしょう)。
さて、キートンの作劇技術の卓抜は、そのような自動的な事態を推し進める「不可抗力」と、それに対して作中人物としての彼が「火に油を注ぐ」按配にあると云えるだろう。終盤、キートンは不可抗的に牛の群れを引き連れて目的地を目指さざるをえなくなるが、牛を操るためとは云え、彼はそこで赤の悪魔衣裳(!)を身にまとって事態を激化させるという荒唐無稽を演じてしまう。ここに赤の布を持ちだすことまでは凡百の脚本家・演出家でも到達できる着想だろうが、あろうことかそれを悪魔の扮装にしてしまうあたりにギャグマンとしてのキートンの天才が刻印されている。
「牛」の映画としても見てみよう。キートンがご執心の雌牛と彼は、まるで人間同士のように意思疎通が取れている、とは云えそうにない。しかし、ことキートンにあって、これが演出の失敗ということはありえない。『キートンの警官騒動』における馬や『キートンの案山子』における犬を一心同体的に操っていたことを思い返せば、動物演出の名人キートンが『キートンの西部成金』の雌牛を「なびくでも拒むでもない彼女」として演出していることは容易に推し量れる。これは「片想い」の映画なのだ。
牛群れのスタンピードは、さすがに後代のハワード・ホークス『赤い河』やエドワード・ドミトリク『アルバレス・ケリー』と較べてしまうと迫力の点で見劣りは否めない(このような「後年の映画と比較して迫力が云々」式の評言は往々にして云いがかりでしかないのですが、しかしこれはキートン映画です。『キートンの蒸気船』は、現今にあってもいまだトップクラスの暴風雨演出の映画ではなかったでしょうか)。とは云え、それを市街地で繰り広げてしまおうという着想こそは天才の業である。一方、スタンピードに至るまでの牛のぞろぞろ歩きもむやみに面白いのだが(ホークス『ハタリ!』終盤の「ベイビー・エレファント・ウォーク」のようにハートウォーミングです!)、「列車」の脱力演出と活劇演出が『荒武者キートン』と『キートンの大列車追跡』の二作に分割して展開されたのに対して、「牛」の脱力演出と活劇演出は『キートンの西部成金』一作に詰め込まれた、と云ってみることもできるだろう。また、(赤衣裳の伏線となるところの)赤い布で牛を囲いに誘導する牧場シーンが中盤にあるが、ここに差し挟まれた突進する牛の主観カットも驚きとともに銘記に価する。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (1 人) | [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。