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[コメント] EUREKA(2000/日)

「わたし」であることを失う地点。
ちわわ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「美には傷以外の起源はない」(J.ジュネ)

この映画を見たひとが誰でも抱く疑問。「人殺しの現場にいたものが自分も人殺しを 望むだろうか?」という疑問。

しかしこの点が肝心要なのだ。

あの殺戮の現場では一体何が起こったのか、 何か起こってしまったのか?問いかけてみよう。あの現場は何なのだろうか? それは世界が世界としての必然性を失う時である。すなわち、わたしがわたしであることをうしなう地点なのである。「世界=わたし」。その外部が明るみになった 地点なのである。

兄妹は、あの出来事をもとに家族を失う。あるいは社会の悪意に向かい合う。沢井は職と家庭を失い放浪する。もはや「世界=わたし」の外部にしか、彼らは生きることができない。

「出来事」を巡って、多くの人間が交錯する。「出来事」は彼らの「内面」にあるのではない。彼らの絶対的「外部」でありつづける。 警官が沢井に対してもつ憎しみは、この「外部」への接し方の違いである。警官にとって「世界」の内部のできごととなるべきものが、沢井や兄妹にとっては世界の外部の 出来事なのである。また秋彦にとっては以前の事件は、眼を背けるべき外部なのである。 警官にせよ秋彦にせよ、この外部は恐ろしい。がゆえに、それを嫌悪する。

沢井にとって、もはや外部から眼を背けることが重要なのではない。沢井がとった行動は、 すべてこの外部に向かいあうための行動である。人を殺してはいけないと沢井は直樹に いうことはできない。伝えることができるのは出来事の意味だけなのである。

そして最後に行き着くのは海である。 海はまさしく世界の外部にある。永久につづく波の反復。このまさしく完全な外部にたって初めて、事件の意味が見えてくるのである。梢が事件を巡る登場人物のなまえを 口に出して貝殻を投げるシーンが意味しているものは、けっして言葉を取り戻した ということだけではない。

傷はふさぐべきものではなく、傷こそがわたしの 倫理的根源に向かい合わせてくれるものでもある。

ながい映画は苦手です(といいつつこちらもながいコメント)。4点。

(評価:★4)

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