[コメント] 靴をなくした天使(1992/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ダスティン・ホフマン演じるバーニー。彼は何故人名救助をしたのか。彼はしたくなかった。するような人格ではないという、他者の作り出す彼の人格像は正しい。彼が人名救助をしたのは、自分の息子と非常に似通った年頃の子供、その少年が父を探す姿に心を打たれてしまったからに他ならない。
決して聖人でもヒーローでも天使でもない。等身大の人間。
そして、アンディ・ガルシア演じるババー。彼は100万ドルの魅力に負け、小さな嘘を吐く。小さな嘘のつもりが、誰も疑わず、彼はヒーローに祭り上げられる。
観客(私)は、ここで、ババーに対し、一種の嫌悪感を覚えつつ、「真実はこうでは無いのに」と、彼を祭り上げる人々に恐怖する。しかし、ババーの言動は、作り上げられたヒーロー像を、必死で演じるかのように、いや、演じているのではなく、元々持っていた人格を表していく。
「我々は、全員がヒーローになれるのだ」と彼が述べる言葉は、心を打つ。大金を手にし、多くの人々から賞賛される立場になって、普通ならば天狗になってもおかしくないのだが、聖人のような振るまいをする。
ババー自らが救助活動をしていたのならば、天狗になっていたのかもしれない。どこか、自分が嘘をついているのだという後ろめたさが、彼をヒーローたらしめているようにも感じた。いつバーニーが現れて、「そいつは偽物だ」と言われるか、金だけ貰ってトンズラしたかったのに、誤算が生じてしまった。彼自信の持つもとからの人格もあるが、ボロが出ることを恐れる部分もあったろう。そんな人間の弱さのような部分を感じていたら、後半の自殺未遂がやって来た。
私がこの脚本を書いたのならば、恐らく勧善懲悪にしてしまったのではないかと思う。途中で予想したのは、ババーの化けの皮が剥がれ、バーニーが今度はヒーローに仕立て上げられる。今までヒーローとして崇めていたババーを、メディアの力と、群集の力で、叩く。そんな人間の醜さを出してくるのではないかと思った。 しかし、これでは、醜さを感じる以上に、「嘘をつくのは良くない」という説教めいたものになってしまう。そんな安っぽい方向には話は流れなかった。
そして、もう一つ考えたストーリーの展開は、バーニーがババーを強請り、ババーがバーニーを消そうとするという、三流サスペンスのような展開。こんな展開が来なくて本当に良かった。
真実を求めることにどれだけの価値があるのか。ババーが偽物のヒーローであったということを、人々は本当に知りたかったのか。「真実」にどれほどの価値があるのか。「真実はこうでは無いのに」と感じた観客(私)の視点とは、バーニーが救助する姿を、まるで神の視点から見ているからこそ生まれる感覚である。ババーの素晴らしい言葉、行動に心を打たれる人々から見れば、ババーこそがヒーローであり、バーニーもそう感じたのである。
バーニーが、息子に言う言葉、「世の中は嘘だらけだ。だから、その嘘の中から、自分が信じたいものを選んで、それを真実だと思って生きれば良い」 この言葉には、彼の愛が溢れている。彼の価値観、彼の生き方、物の考え方がこの言葉に詰まっている。
バーニーは、でも、ヒーローになりたかったのだと思う。息子一人にとってのヒーローに。彼はなれた。それで充分なんだと思う。
登場人物全てが、善人であり、悪人である。そんな愚かで美しい人間。私はこの物語を、人間賛歌のように感じた。
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