[コメント] セレブレーション(1998/デンマーク)
映画を見終った人むけのレビューです。
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精神的にきついって言うより、はっきり言って吐き気を覚えた。酔いを伴う動きを見せるカメラ・ワーク(映画研究会の8ミリ映画かよ!)に伴い、ぎすぎすした言葉と展開。精神的な根幹を傷つけられたような気分にさえなった。人間の悪意そのものを描いたため、はっきり言って下手なホラー作品よりも怖い。
とにかくここに登場する人間にはみんな苛々させられる。生々しい性交渉の場面と言い、相手を傷つけるためにはき出される毒のあるせりふの数々と言い。一々かんに障る。
しかし一方で、全く目が離せない自分がいる。構図の巧さもあるが、むしろ未体験ゾーンに突入してしまったと言う感じがある。近親相姦や民族差別を前面に出して作られたお陰で精神的に凄まじい圧迫が加えられ、終わった後はものすごい疲れを覚えた。しかしながら、意外なことに後味はすっきりしてる。それが自分でも結構意外。
こんな変な作品が、それでも面白いと言うのが妙なので、ちょっと自分なりに分析してみた。
映画にはこんな可能性もある。確かに部分的にはこういう見ている人間の精神を冒すような生々しい作品もあり、実際その中には傑作も多い。しかし、一本調子にそれだけでやってしまう映画というのはほとんどないのだが、むしろ本作は確信犯的にそれをやってる。下手すればそのままポップアート作品として黙殺されても仕方ない作品のはずなのだが、水準以上のおもしろさを持たせるなど、なかなか出来る事じゃない。間の取り方とテーマ性でみせ切ってしまった。
にこやかにしている人間の表面の皮をめくってみると、そこには生々しさ、どす黒さが渦巻いており、更にその中に入り込むと、傷つきやすい心というのがある。そんな不完全な個体をもって人間は生きていくしかない。それを時に直視する必要がある。それを超えて生きていく。このテーマはこれまで文学小説の独壇場だったのだが、それは映像でも可能であり、むしろ生々しさを演出するなら映像化した方が容赦ないものを描ける。
…しかし、これはあんまり映画では用いられることがない。理由は簡単で、これでは客が入らないから。いくつかの賞を取ることは出来ても、映画の成功とは結局観客動員数なのだから。
過去にもいくつかこういう精神に来るような苛々させられる作品というのはいくつかあった(カザン監督の『欲望という名の電車』(1951)なんかはその代表と言えるけど、ワイラー監督なんかも結構この手の作品を作るのは得意だ)。しかし、それにはいくつかの条件が必要。例えば映画化の前に舞台劇で成功していたとか、あるいは超メジャー俳優に演じさせるとか。付加要素がなければ大抵は売れない(日本でもATG作品なんかはこういう実験的なものも多い)。いずれにせよ、こういう作品はなかなか成功しにくいので、莫大な金のかかる映画製作はしにくいのが現状。
それに挑戦したのがこのドグマ95だった。この作りは、精神に来るものを作りつつも、独りよがりなだけには終わらせず、しっかり観客には楽しんでもらおうというサービス精神もそこにはあった。当初全然まとまってない群像劇をコントロールし、やがて大団円に持って行く。どういう形であれ、観終えた後、後味は決して悪くない。確かにメジャーにはなりにくいのは事実ながら、はっきり言ってこれはかなり面白い。映画には本当に色々な可能性があると、改めて思わされた作品だった。
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