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[コメント] プライベート・ライアン(1998/米)

あえて戦争映画という枠組みを除外して、任務を遂行するチームの物語としてみてみると、トム・ハンクスを中心としたキャラクター造形がいかに傑出しているかがわかる。
shiono

**ネタバレ注意**
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目標の達成を主眼とするドラマは、主人公とその周囲の人物がどのように描かれているかによって、大きく二つのタイプに分けられる。カリスマ性のあるヒーローが独力で牽引していく英雄譚と、プロ集団がそれぞれの持ち味を生かしつつ連携する群像劇である。語るべき物語が長大なものであれば、前者は神話の、後者は民話の領域に達するだろう。

神話では、固有の人物名が絶対的な意味を持つのに対し、民話は、ある特定の出来事内においてのみ人名が固有性を持つ。前者は、彼その人でしか成しえない偉業を語り、後者は、時と場合においては誰にでも当てはまるような普遍的な事柄を扱う。また、それぞれの物語において、仮にメッセージ性が感じ取れるとするなら、前者のそれは哲学的、運命論的であり、後者では実利的、教訓的なものになるだろう。

映画においては、そのストーリーの内容にもよるが、その作品の中に神話的あるいは民話的なニュアンスを見出すことができる。ことに叙事詩的スケールを持つ大作ではそれが顕著だ。例えばフォードとホークス。あるいはイーストウッドとスコセッシ。スピルバーグは、というか正確にはこの『プライベート・ライアン』は、民話的なアプローチの作品である。それは、現代ハリウッドのトップランカーの中では最もヒロイックではないトム・ハンクスを主役に起用したことからも明らかだ。彼のスクリーン・ペルソナは、中庸(だけ?)が魅力のハリソン・フォードと比較しても、さらに輪をかけて慎み深い。

ハンクスを指揮官とした八人の小隊は群像として描かれている。各人のキャラは立っているし、チーム内での対立あるいは相互理解もストーリーを彩る程度には存在しているが、それがメインのテーマにはなり得ない。いわば、どこにでもいる兵隊としてのルックスを持っているのだが、その任務においては極めて特殊である。ライアン二等兵を連れ帰るという唯一無二の目的を与えられたという点において、この群像は集団的に英雄として機能するのだ。

この物語構造の巧みさには唸るしかない。神話と民話の中点に留まることで、戦争映画の宿命ともいえる政治的社会的な束縛を免れて、抽象的な概念としての人間の生命のあり方への問いかけ、その問いかけそのものを表現することに成功している。なぜこの映画にはこんなことが成し得たのか。ハンクス小隊のキャラクター造形を眺めてみて、ふとあることに思いついた。

映画の序盤で描かれる、兵士の戦死を通知する手紙。軍の要職にある使者が、この手紙を携えて肉親の元を訪れる。この使者は説話的には死神である(肉親にとっては文字通り、だろうが)。であるなら、戦死を未然に防ぐべく遣わされたハンクス小隊は天使である。ここで思い出したのが『天国から来たチャンピオン』。あるいはそのオリジナルである『幽霊紐育を歩く』のほうがイメージとしては近いかもしれない。『幽霊紐育を歩く』は、天国の手違いにより50年早く召されてしまったボクサーが、天国の係官を引き連れ、この世に戻るべくあれこれ算段するコメディである。

プライベート・ライアン』では、戦死通知を次々と打つタイピストルームのシーンがあるが、ここに「天国にて」とキャプションをつけてみたらどうだろう。映画の冒頭から終幕まで、すべて矛盾なく成立するようにできていることがわかる。ハンクス小隊はその不死性といい不可視性といい、天使としての片鱗をそのキャラクターに滲ませている。無論、戦争映画としてのリアリズムを阻害しない形で、である。戦闘シーンが過剰なまでに即物的であることのひとつの理由は、この演出の方向性にもあると思う。

スピルバーグは、神話と民話の中点からの抜け口として、彼の作品に共通して見られる夢想性を足がかりにしたのではないだろうか。クライマックスの戦闘は、使命を遂行するためだけに遣わされた彼らが、人知を超えた領域にまで達して消滅する、壮絶な破壊のプロセスである。

(評価:★5)

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