[コメント] トリコロール/白の愛(1994/仏=ポーランド)
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一見、この映画では立場の平等、身分の平等が描かれているように見える。
冒頭の裁判所で、カロルは母国語で裁判ができないことに対し、「公平はどこに?」と疑問を呈する。終盤ではポーランドにいるドミニクが、夫殺しの容疑で通訳を介して警察の取り調べを受ける。この対比が立場の平等。一方、死んだことになっているカロルと刑務所にいるドミニク。社会に居場所がない人間と社会から隔離された人間の対比。これが身分の平等。でもこれは、置かれた状況を似せているだけで、「平等」の意味範囲からは少しズレているように思う。
キェシロフスキの映画である以上、そして『トリコロール』三部作の一編となれば、生と死、愛をモチーフにし、運命というスパイスを利かせていることは間違いない。拙コメント『青の愛』では生と死を語ったので、ここでは愛に触れたいと思う。苦手な分野だが。
ドミニクは性的不満で離婚を望むのだが、それが最大の理由だろうか? もっと大きなものがドミニクの心を占めているような気がする。カロルは盲目的にドミニクを愛しているようだが、その愛に対する戸惑い。またそのように自分は愛することができない苛立ち。性的に満足していればもしかしたら自分もカロルの想いに近づけるかもしれない、でもそれも叶わない。ドミニクは自分でもどうしたらいいかが判らなかったのではないかと思う。最終的にドミニクが選択したのは、とにかくカロルから離れることだった。「夫を愛していません」という法廷での証言は、かなり怪しい。
ドミニクに一方的に突き放されてしまったと感じたカロルは自分の死を偽装し、ドミニクに容疑がかかるように仕組む。これはドミニクに対する復讐だ。しかしカロルがたとえ一時期でも自分を憎んだことで、ドミニクはだいぶ救われたと感じたのではないだろうか。盲目的な愛の重圧が軽減されたのだから。カロルの愛に弱みを見つけたからこそドミニクは、カロルと対等に愛し合えるようになったのだと思う。
キェシロフスキが描こうとした平等は、身分や立場の平等ではなく、恋愛における心の平等。二人のうちのどちらか一方の想いが強すぎると、恋愛は成立しにくくなりますよ、そんなところだろうか。
やっと二人の心の壁が取り外されたかと思ったら、今度は刑務所の壁が。やっぱりキェシロフスキはちょっと意地悪だ。でも、もう大丈夫だよね、お二人さん。
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