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[コメント] ニュールンベルグ裁判(1961/米)

 正義と真実を求めるのは皆同じ。ただそれがどちらを向いているかで求める結果が変わる。「永遠不滅の正義の教典なんてあるのか?」
にくじゃが

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 アメリカからの検察官は「勝者の側からの正義」を。誰かが戦争中の残虐行為を裁かなければいけない。二度とこのような戦争が起こらないように、それとこれから占領続けていく上でもびしっとやらなきゃならない。

 ドイツの弁護側は「威厳」を。ドイツ人が、ドイツ人であること、これから堂々と生きていけるようにと。彼は「これから」を考える上では何らかの亡霊がいないとドイツは立ち直れないと思っている。

 ヤニングは、彼だけは「未来」を向いていたと思う。ドイツ人がドイツ人であれ、ってのは弁護人と同じだけれど、彼はドイツ人が新たに立ち直るには亡霊を完全に叩きのめすことが必要だと思っている。伝統あるドイツ、ならば立ち直れる強さがある、と彼は信じていたのではないか。

 判事はここから「未来」を選択したと思う。でも、最後の留置所(?)で、彼らの意見は食い違う。判事はあのヤニングの意見を「ひとりの良心的ドイツ人が、自分の良心に従ったもの」と勘違いしたのではないか?

 伝統あるドイツ(またはヨーロッパ)、歴史の浅いアメリカ、この両者は分かり合えない。弁護側の冒頭陳述を思い出す。だめかも。

 ついでだけれど、ヤニングが暴走しだしたあとの弁護人との面会シーンで、弁護人の発する「dignity」って単語を「自信」って訳していたけれど、あれではだめだよ。自信ってったら「pride」だよ。あくまで個人的なものだよ。あそこはドイツ人民全体が、同じ思いを等しくするって位でかいもの。「威厳」「尊厳」ってのじゃないと伝わらないと思う。

(評価:★5)

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