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[コメント] ロッキー(1976/米)

アメリカン・ドリームへの、アイロニカルな郷愁?もっと寡黙で脳味噌が筋肉な映画かと思っていたら、肉体よりも言葉が優先された内容。ロッキーが肉体を酷使している場面より、喋くっている場面の方が長い。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







エイドリアンの兄が本当にどうしようもない豚野郎で見ていて苛々するのだが(僕はあそこまで横暴で単細胞な奴を善人とは思わない)、その兄が妹についてロッキーに言う。「あいつ、もうすぐ三十になるんだぜ」。「俺も三十だよ」とロッキー。人間、やはり三十が人生に於ける大きなターニングポイントなのか。かの三島由紀夫がボディビルを始めたのも三十。この映画はボクシング映画というよりは、ロッキーの挑戦を通して、一つの可能性に人生を賭ける姿を描いた人間ドラマという印象で、地味で無口なエイドリアンが、ロッキーに見初められて女として花開く姿もその一つ。

だが、そのエイドリアンの変化を、ロッキーによって眼鏡と帽子を取られた際に見せる素顔と、それまでの姿のギャップで済ませてしまうのは、もう一つ。スケートリンクでのデートで交わした会話で、彼女の心が開かれていった成果として、あのキスシーンがあるのだというのは分かるのだけど。要はお調子者の男に巧く言いくるめられて部屋に連れ込まれ、何となくそういう雰囲気になってしまった、という、いかにも「イタリアの種馬」的な展開には、心揺さぶられない。あのスケートリンクの場面は良かったんだけどな、支配人に「10分だけだ」と、終業したリンクを貸し切りで使わせてもらうという、制限時間付きのデート。支配人が大声で残り時間をカウントする様は、まるでリングの上の10カウントのようではないか。

コーチの「女は脚にくる」という忠告は面白かったけど、この映画に関しては「女は脚本にくる」と言いたい気分。エイドリアンを削ってでも、ロッキーがいかにボクシングただ一つに賭けているのか描いてくれた方が良かった。試合前夜、自信が無くなった、とエイドリアンに告白するロッキー、ここでエイドリアンが印象的な台詞でも吐けば彼女の存在に必然性が出てくるし、最後の「エイドリアン!」の連呼も感動的になった筈。だが、彼女の隣りに寝転んだロッキーは、延々と独り言を呟いた挙句、自分で納得してしまう。勿論、傍にエイドリアンがいたからこそ、自分を奮い立たせる事が出来たとも言えるが、それは理屈として言えるだけ。もっと緻密に演技とショットでこの場面を際立たせる事は出来なかったのか。こういった点での監督の凡庸さが惜しまれる。

スタローンはこの映画に役者人生を賭けていたのだろうけど、ボクシングの描写が表面的に止まっているせいで、ロッキーがボクシングに賭ける想いに具体的な肉付けを為すには至っていない。イメージ映像のつなぎあわせだけで、その血と汗と努力を描くというのは、ちょっと甘っちょろくないか?チャンピオンの癖を研究するとか、自分の弱点を克服していくとか(両足を糸で結んでそれを切らないように、という特訓も、一瞬映るだけで、克服の過程が何も無い)、試合前に綿密に作戦を練るとか、そうした丁寧な描写があれば、実際の試合で、そうした計算に誤算が生じる、などのドラマも展開し得ただろう。この映画は、ボクシングはネタに過ぎず、その周辺のドラマを描く事の方に熱心なので、闘いそのものの中にドラマが感じられない。もっと筋肉馬鹿に徹してくれても良かった。実際にスタローンが撮影の為に筋肉痛になっていたといった裏話は、まさに血と汗と努力なのだろうけど、逆にそうした「事実」はあっても無くてもいい話であり、映像として、フィクションとしてボクシング馬鹿度が圧倒的に足りないのが問題。

ロッキーが、意外にお喋りの巧いお調子者なのだが、チャンピオンがそれに輪をかけてお調子者。ロッキーがトレーニングに励む一方、チャンピオンはこの、無名のボクサーがチャンピオンに挑戦するという「アメリカン・ドリーム」を、作られた物語として成功させる事ばかり考えている。典型的な「兎と亀」の話だ。実際、ロッキーは亀を飼っているのだが。このチャンピオンは、ジョージ・ワシントンのカツラを着けたり、有名な「I want you」の志願兵募集ポスターの真似をしたり、アメリカを発見したのはロッキーと同じイタリア人だという事に言及したり(この男の名アメリゴがアメリカの語源)と、アメリカのアメリカたる所以にやたらとこだわった言動が目立つ。元は奴隷として連れてこられた黒人が、ボクシングというステージだけでは特権的な立場に立っている事を強調したかったのか。この黒人チャンピオンが、演出された劇としてのアメリカン・ドリームを仕掛け、ロッキーはおのれの拳でそれを本物のアメリカン・ドリームにしようとする。この辺りの構図がなかなか面白く、こんな脚本を書いたスタローンは絶対、ただの筋肉馬鹿じゃない。

ただ、こうした筋書きや台詞も含め、劇として巧く書かれている点が、逆に作り事として感じられもしてしまう。あれだけ口も達者なら、肉体一つに賭ける事も無いんじゃないのか?あんな会話を成り立たせる奴が、頭の弱い奴な訳が無い。「俺にはボクシングしか無い」の一点に全ての意識が集中してジリジリと燃え上がる感覚が薄すぎる。スタローンの映画では、『ランボー』第一作はかなり好きなのだが、あのランボーにあった哀愁や遣る瀬無さが、ロッキーにも滲み出ていればなぁ・・・・・・。ロッキーの、チンピラに落ちかけている境遇に対する苦渋の思いが感じられない事、チャンピオンに、ロッキーが打ち勝つべき敵としての強さが感じられない事、この二点が決定的に痛い。

この映画から感じたエモーションは、その半分以上がビル・コンティの神憑り的な名曲の力に拠っていたように思う。第一、別にロッキーに感動しなくたって、僕らには力石徹や矢吹丈がいる。ロッキーは中途半端だ!

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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