[コメント] 田舎司祭の日記(1951/仏)
罫線のある帳面へ几帳面に書かれる文字。ペンと指のカット。モノローグがかぶり、プロットが進行するが、終盤で文字が乱れ、帳面を落としてしまい、ペンも落としてしまい、帳面を拾い上げたくても持つことすらできない。この描写の厳しさ。胸に迫る。
この映画は、若い司祭と主に領地の住人、領主の家族、あるいは先輩司祭との関係を描いたものだが、同時に主人公の病気の状況を冷徹に見つめる映画でもある。この点においても、本作は、モノ凄いものを見た、という思いにさせてくれるのだ。
また、宗教に関する会話シーンも多く、そういった部分でつらいものがあるか、と見る前は危惧していたのだが、私はまったく杞憂だった。例えば、冒頭、領主の敷地へ入る門の側で、抱擁する男女のカットがある(後で領主とその娘の家庭教師と分かる)。このように、領主の娘と家庭教師と、もう一人、村の少女という三人の若い女性が、ある種、メロドラマ的に配置されており、私のごく卑俗的な興味が引っ張られた、という点は否めない。また、演出的な面白さも多々ある。例えば、上にも書いた、領主の敷地の門と鉄扉越しのカットが何度も反復されてリズムを作る。あるいは、終盤の駅のシーンでは、ホームの司祭を映して、入って来る汽車は全く映さず、オフの効果音だけでその到着を示すといった大胆な演出。
そして、私が、もっともブレッソンらしい細部のスペクタクルを感じた部分は、領主の娘から、父宛の手紙を受け取る、告解室の前のカットだ。険しい表情と、柔らかな手や指の演出。見ている時点で、こゝが沸点のようなクライマックスだろうと感じたが、今でもそう思う。
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