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[コメント] 野菊の如き君なりき(1955/日)

再見しても初見の感動が沸き起こる。信州の風景と、杉村春子浦辺粂子の存在感が回想のシーンを豊かに膨らませていく。そして、笠智衆を登場させる演出は21世紀になって新たに変奏される。詳細はReviewで。
ジェリー

緩やかなパン移動で風景の広がりを感じさせたり、固定ショットの中で水平に歩んでゆく人物のショット(広重の風景画を想起させる)を丹念に繰り返したりしながら、不穏をはらんではいるものの一定の均衡をストーリー化する手練は素晴らしい。唯一、それを打ち破るのが、2階から階下に降りてくるヒロイン民子を撮るキャメラの上下の動きであり、そして、民子の足元から顔にティルトアップするショットであった。ここは、民子の心底の重大な変化がおこる劇的なシーンである。音楽でいえば奏法が突如変化し、起承転結のヤマ場を迎えようとしていることが如実に伝わる。本当にこのシーンだけにしか見られないキャメラの動きだが、この効果は絶大だった。のべつ幕なしに様々な映画技法が起承転結のどの時間にもぶちまけられる現在の映画の作法とは正反対で、実にゆかしい。

そう、この映画はある意味「ゆかしい」のである。

そして、こうしたゆかしさの相貌とは別の相貌が存在する。それは、笠智衆の登場する時間(現在時制)の導入という技法である。それはややあざとくもあるが、21世紀の若者向け恋愛映画が盛んに模倣というか、活用しているのは事実である。このシーンの存在で、田中晋二有田紀子の登場する主筋のシーンが過去時制と化し、回想であることを意識させることによる抒情性が生まれる。(回想シーンの強調は、画面の縁取りによっても行われる) 『世界の中心で愛を叫ぶ』や『君の膵臓を食べたい』といった映画が今なお踏襲する技法の、日本映画でのかなり早いさきがけではなかろうか。(ハリウッドには、『哀愁』という決定的作品があるが、調べればもっと古くからあるかもしれない)

初見の感想を、「歌い上げるような」という言葉で記録したことがあるが、この感動の腑分けをしたいという思いから批評を書き直した。理屈っぽいが、今感じたことを書いておく。この作品をまた見た時に、新たな発見があるだろう。そういう奥深さがある。

(最初の批評を以下に残しておきます。この感想は今なお、私には真実である)

ほとんどこの作品だけで消えた有田紀子。親しみやすい感じで好きでした。歌い上げるような木下節の傑作。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ぽんしゅう[*] ゑぎ[*]

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