[コメント] ぼくが生きてる、ふたつの世界(2024/日)
ろう者夫婦とコーダの息子という特殊性をことさら強調することなく、さらに過剰に作為的な感傷に堕することなく、物語は誰にも覚えのある息子と母親の“普遍的な情愛”の交感へと収斂していく。今さらながら無心の“笑顔”が持つ赦しの力に圧倒されてしまった。
小さな港町の男の子の誕生から話が始まる。そして母親と息子の物語は、あえて時間の経過がもつ“余韻や余白”を省略しながらずんずんと進んでいく。
障がいのある母(忍足亜希子)と健常者の息子(吉沢亮)のギャップが生む交感と苦悶という題材を描くにあたり呉美保は、いたずらに感傷に誘導するような“常套”を巧みに排除しながら、この一家に起こるべくして起こる事実(現実)を優劣をつけずに積み重ねていく。
その時間の経過の“余韻や余白”の省略の強引さに途中戸惑いを感じながらも、話の終盤になって(ネタバレになるので詳しくは書けないが)時間のなかに埋もれていた“余韻や余白”が二人の「理解」の鍵となって立ち上がってくる。この港岳彦の脚本構成とそれを的確に映像化する呉美保の演出は見事だった。
ところで、そもそも息子にとって(障がいの有無にかかわらず)母親は、彼を自分の庇護下に束縛するやっかいな良性の妖怪だ。男なら誰だって多かれ少なかれ“親離れ、子離れ”が持つ解放感と寂寥を経験しているだろう。
障がいのある母のもとで育った主人公がまず「障がい者と世間」の距離を理解し彼らとの関係を築いてから、その後に「母親」という良性の妖怪の普遍的な“重さ”に気づくという過程がとてもロジカルで説得力があった。まさに「ぼくが生きてる、ふたつの世界」なのだ。
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