[コメント] 海辺の彼女たち(2020/日=ベトナム)
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肩越しに被写体を追うダルデンヌ兄弟のミニマムは手法は経費節減にも役立っているのだろうが、作品はこれを反転活用し、映画に日本人が殆ど登場しないことに積極的な価値を見出している。日本人は背後に隠れており、全て代理人が代行してしまう。そのような方法で、見えないしわ寄せを受けた娘三人を可視化することに成功している。
登場する日本人は四人。ひとりは軽トラで魚を運搬する青年。誤って魚をひっくり返してしまった娘三人を最初は小さく詰り、そして怒りをどんどんエスカレートさせてゆく。「お客さんの口に入るものなんだぞ」と怒鳴る。この、金を払う者を敬い、払わない者を罵倒する精神は、一般に奴隷根性と呼ばれるものだろう。青年は奴隷根性に憑依されていく。
ひとりは病院の受付。「規則ですから」で外国人を選別する役割を担わされた彼女は、正にカフカ的な門番であり、存在自体がシュールだ。書類がなければ排斥し、あれば受け入れる機械。職務態度が柔らかい人間らしさを醸し出しているのが、果たして人間性って何だろうと思わされる。それはここでは非人間性を粉飾するためだけに利用されている。
ひとりは産婦人科医。彼女の小さな命に対するヒューマンな慈しみは、門番の関門を越えて始めて辿り着ける特権である。しかしホアン・フォンが一度だけ流すこの涙は、特権を持たない者の涙だった。四人目の密行手配人に指摘されるまでもなく、彼女は出産を諦めている。ラストの状況に反目させられてしまった娘三人の沈黙。何というストーブのオレンジだろう。
バス停を間違えたのか、彼女が病院に辿り着くまでの、住宅街、果樹園みたいな処と線路沿いをとぼとぼ歩く長い長い件に、忘れられない強度がある。小雪が舞い、寒風が吹く。彼女にとってそこは世界の最果てだろう。ベトナムから遠く離れて、というフレーズを想起してしまう。そこは決して彼女らの居場所ではない。いや、何処へ行ってもいいのだが、ここだけはいけない。ここはやむを得ず辿り着く場所ではない。
邦画において在日外国人は、まず排斥され、戦後にその反動で聖人化され、井筒たちの世代はもう一度これを反転させてヤンチャな造形でリアリティを与えられた。本作は、井筒的なリアルが零れ落としていたものをもう一度拾い上げている。静かな、もの云わない、黙らされた、存在を消したように生きている外国人がいる。私たちのデフレ生活は、彼等彼女等の低賃金労働、本邦の排他的難民政策と背中合わせの技能実習生制度に支えられている。本作の居た堪れなさはリアルと地続きである。
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