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[コメント] 流れる(1956/日)

原作よりはるかに分かり安い。これは原作の主人公女中を脇に退けた脚本と演出、何より女優陣のキャラ分けを成し得た演技力によるものだ。しかし、観客の固定した(頼るべき)視点が無くなり、(特に後半)不安定になった点は欠点だと言わざるを得ない。 
KEI

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







原作者幸田文は47才の時に4か月ほど、そんな女中体験をし、それを基に書いた。

最初の部分、家の汚さ描写は凄く―ネズミの糞が至る所にあった等―と書いている。映画ではそこ迄の表現は無理、意味無いと判断したのか、さほど触れていない。ただ次の1シーンを除いては。それは‘夜梨花が寝る時、布団の上に新聞紙を敷くシーン’だ。(原作を鑑賞後に読んだので)寒いのかな?と思ったりもしたが、原作を確認すると、‘ふとんに女性の生理の赤いしみが点々とついていて梨花はおぞましくその汚さには堪えられない’だった。

途中映画では原作を端折ったり縮めたりしながら進むが、ラストが全く違う。原作のラストは、‘つた家’は川向こうに引っ越す、という所で終わる。梨花もあの話を受けたようだ。

最初に触れたように、原作は梨花を主人公に描いて心理描写も沢山あるので、言葉使いの丁寧さ(映画と一緒)は有るが、気が強い所がある、というのが読者によく分かる。あの話も受けたんだなという事も違和感なく分かるようになっている。 しかし、映画は梨花を脇に置いたが為に、少しおとなしい人に設定せざるを得なかった。その結果、あの話を受けるような性格の人には成らなかった。

そういう形で、原作とは違う形になった。映画終盤の‘他家新芸妓のお披露目’(原作では途中だが、映画はここに持って来た)とか、清元‘神田祭’は山田の(得意な)才能を生かしたというより、上に挙げた欠点を払拭するべく入れたシーンだろう。

その結果、これらの毎日の平穏さ、楽しさが、無くなる日がひたひたと近づいているという事を誰も知らないという切なさが倍増して、観客の胸に迫って来る作品となった。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] 寒山拾得[*]

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