[コメント] グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札(2014/仏=米=ベルギー=伊)
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車道を映したいかにも古めかしいフィルム映像で映画は幕を開ける。カメラが動き始めると、これは合成撮影に用いるリア・スクリーンであったことが判明する。どうして劇中時点では新しいはずの合成用背景のフィルムにスクラッチ(縦に走った擦り傷。本数が甚だしい場合はアメフリとも呼ばれる)が入っていたのかは不明だが、ともかくカメラはそこで後ろ姿のキッドマンを発見し、彼女が撮影現場を離れて楽屋に戻るまでをフォロウする。そして私たちは彼女の顔を鏡面上のそれとして初めて目にする。この間、カットが割られることはない。ややテクニカルなロングテイクが試みられたこのオープニング・カットで、これはもっぱらキッドマンを追い続ける映画であることが宣言される。
もっとも、これ以降エリック・ゴーティエに期待されるクォリティの画面にまみえる機会はほとんど訪れない。ド・ゴールを弁解の余地のない敵役に仕立て上げてしまうあたりはなかなかに思い切っていて愉快だが、全般的にシナリオのブラッシュアップ不足が語りの円滑性・緊密性に影を落としていることも明白だろう。パーカー・ポージーを巡る疑惑などもろくに演出しきれていない。
それでも、一人キッドマンだけは私を裏切らない。彼女がこの役にふさわしいのは、その美貌や芝居の技量のためではない(そうであるならば、キッドマンより適材の女優は他にもいるはずです)。それを私は先に「根性」と云ってみたが、または「ソウル」と呼んでもよい。もしくは「知性」でも。どうしてそのようなことが云えるのか、私は証明の術を持たないが、ただキッドマンのすべての表情と所作と発声を受け止めさえすれば事足りるはずだと信じる。あるいは傍証の材料にもならないかもしれないが、次のことも付け加えておこう。終盤に主人公がぶちかます「演説」をクライマクスに定めた映画は少なくないが(近年の作では『英国王のスピーチ』や『ハンナ・アーレント』が該当するでしょう)、それが「演技」であることの自覚において、そして演技を貫徹することで却って狭義の演技を超越して真実めいた何かに触れる点において、ここでのキッドマン演説の性格は『チャップリンの独裁者』におけるチャールズ・チャップリンのそれに接近してみせるだろう。
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