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[コメント] ニーチェの馬(2011/ハンガリー=仏=スイス=独)

「食べて」「お願いだから」という女の語りかけに、「なぜ?」と奈落の瞳で返す馬。神も輪廻も永劫回帰も超人思想も、全ての言葉を殺害して世界は闇の中に溶ける。ニヒリズムの極北。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







※ ニーチェのことは詳しいことを知らず、にわか勉強でレビューを書いています。ニーチェ信者の真性の方は読まないでください。

キリスト教で言うところの「安息日」にあたる「六日目(土曜)」に世界が終わる。「復活の日」である「日曜日(太陽)」は訪れない。「復活」を前提とした永続性=「7日間」の「サイクル」が永遠に終了される。

この現象が、(キリスト教に代表される)生や業苦の克服の拠り所である「神」の沈黙・・・より一歩進んで「死」を示す象徴としてあらわれる。一切の労働をしない「安息日」に死が訪れる、ということにもアイロニーを読み取れる。復活や来世・現世といった楽観的な生の永続性は、父娘の極めて単調な反復であるミニマルな生活においてさえ否定される。日々わずかに、しかし着実に減ってゆくジャガイモ、パーリンカ(焼酎)、水。

キリスト教的な楽観的永続性の否定と「神の死」という価値判断はそのままニーチェ思想に通じるもので、ここまでは分かりやすいのだが、わざわざニーチェがタイトルに引き合いに出されているのでにわか勉強でwikiなどをさらってみたところ、「神」(既成価値)の死から能動的ニヒリズムを出発させたニーチェの永劫回帰思想と超人思想すらここでは否定されている。本作において展開される光景は、これらの思想への相似形(「一回性の連続」「神々の黄昏」)を辿りながら最後は、永劫回帰と超人思想をまるごと呑み込む終末に帰結してしまう。ここに、能動的ニヒリズムの肝である「然り」などという言葉・光景が一つでも提示されただろうか。うつろな瞳で窓外を見つめる父子に、「超人たれ」と呼びかけることは蛮行ではなかろうか。私達はちいさな人間でしかあり得ないのだ。

ここでは全ての「言葉」が否定されている。台詞らしい台詞はと言えば、パーリンカをたかる隣人の饒舌(多分歪められたニーチェの思想を語っている)と聖書(?)の朗読だが、全ては空虚な響きを伴って宙に浮いてしまう。事実、ほとんど言葉を語らない父は、「くだらん、いい加減にしろ」と男の言葉を遮る。言葉とは「神」であり、これらの言葉も殺害されている。

ニーチェがむち打たれる言葉の届かない馬の首を抱いて発狂したのは何故か。自らの言葉が無力であること、神の死という価値の相対化を説いた自分が、もっとも自らの価値に縋っていたこと、その価値を完全に否定されたことを致命的に悟ってしまったからではないだろうか。「食べて」「お願いだから」と娘が語りかけても「なぜ?」と純粋で残酷な問いを投げかける馬の瞳に射られて、お前は正気でいられるか、日々を「然り」と肯定できるのか、「超人」で在ることなど出来るのか。タル・ベーラは「ニーチェの馬」という挿話にこれらの問いを託して、全力で無に還る世界を描く。

・・・正直ここまで逝っちゃうと観てて疲弊するだけですけどね。各所のショットや劇伴には度肝を抜かれましたし、終末のイメージはこの上なく魅力的です。が、人生の役に立つ映画ではないです。気持ちは分かりますが。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] 赤い戦車[*]

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