コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 愛の勝利を ムッソリーニを愛した女(2009/伊=仏)

人並み外れた意志力を持ち、私たちが何気なく共有する正気/狂気の判別基準を無効化するヒロインたちは面差しにどこか似通った陰りを宿している。このジョヴァンナ・メッゾジョルノからは『チェンジリング』のアンジェリーナ・ジョリー、『裁かるゝジャンヌ』のルネ・ファルコネッティらが透けて見える。
3819695

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「画面」と「物語」の二者に分割・還元してすべてを語れるほど映画とは単純な構造物ではないけれども、ともかくこの作品においては画面と物語がほとんど理想的に拮抗する関係を取り結んでいる。幹の太い物語が画面に密度を求め、また強力な画面が物語を力強く展開する。

さて、親と成人後の子を同一キャストが務めることはむろん珍しくないが、ここでフィリッポ・ティーミがムッソリーニ父子をともに演じることの皮肉な多義性には眩暈を覚えるほどだ。内閣府の監視のもと妹夫婦の家に身を寄せて以来、イーダがムッソリーニを瞳に収める機会はニュース映画を除いて他になくなる(そして、それすら実際のところティーミではない。かつて実在したベニート・ムッソリーニのアーカイヴ映像だ)。こうしてティーミは画面から消え去ってみせる。強制的に癲狂院に閉じ籠められて以降も彼女は熱烈にムッソリーニを求め続けるが、望みはいつしか「ムッソリーニの正妻として認められること」ではなく「息子アルビノと会うこと」へとその重みを移してゆく。そのころにはもう子役がアルビノに扮することはできない。今一度ティーミその人がアルビノを演じるために画面に帰還する。したがって映画は、イーダがムッソリーニを、あるいはイーダがアルビノを求める物語というよりも、女優メッゾジョルノが男優ティーミを求める物語という性格を強くする。

マルコ・ベロッキオは一見単なるメロドラマであるところの筋に「映画」そのもの、もしくは「演じること」という主題を繰り広げている。度重なる映画内映画の上映は劇場に留まらず、傷痍軍人で埋め尽くされた病院の天井、そして癲狂院の野外スクリーン(『キッド』!)にまで侵食してゆく。一九一〇年代から二〇年代にかけて、確かに映画はこのようにしてその勢力を強めていったのだろう。「映画」は貪欲に「現実」を取り込み、世界の一角に自らを位置づける。云うなれば映画の現実化と現実の映画化の同時進行的事態である。人々はそこで何を求められるのか。演じること、ではないか。ムッソリーニのいかにも大仰な演説は「最も巧く演じる者が最も大きな権力を持つ」ことを示唆しているが、翻って「ファシスト好みの従順な女性」を演じることすら拒否する者には容赦ない社会的抹殺が待っている。しかし、おそらく事態はそこまで単純ではない。「最も巧く演じる者」を最も巧く演じたティーミ=アルビノの末路はやはり癲狂院である。ここに来ていよいよティーミの一人二役が持つ意味は複雑だ。ともあれティーミ=アルビノが学友に請われて父親の演説の物真似をフルパワーでやりきってみせるシーンは、尋常でない迫力をもってこの映画における悲喜劇の臨界点を記録するだろう(概して私は物真似というものに弱く、『オールウェイズ』におけるホリー・ハンタージョン・ウェイン物真似や『ロング・グッドバイ』における守衛のウォルター・ブレナンジェームズ・スチュアート物真似なんかも大好きなシーンなのですが、この演説物真似には心の底から恐れ入りました)。

 他に印象深かったところを箇条書き的にいくつか記しておきます。ティーミが理由不詳の決闘を行うシーン、そこで背景の煙突が吐く煙のカットの異様さ。メッゾジョルノが癲狂院の格子越しに見上げる雪の美しさ。またその格子をするする登ったり樹木から降りたりといったアクションの軽快さ(ボディダブル?)。同様に軽やかに、落ち着きなく踊り回るバレリーナ。メッゾジョルノのすべてのクロースアップ。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)ゑぎ[*] ぽんしゅう[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。