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[コメント] ベスト・キッド(2010/米)

これからも生まれつづけるだろう『グラン・トリノ』の嫡子的一篇。「アジア」と結ばれる年齢を隔てた師弟/友情関係。人生の光と闇が交錯する抜き差しならぬ細部としての「自動車」。光と闇と云えば、これはまた強烈な照明の映画でもある。クライマックスはジャッキー・チェンジェイデン・スミスの「影絵」だ。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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 上は公開初週に最寄りの上映館に駆けつけた際に記されたものです。それは日本語吹替版でした。必ずしも吹替が映画のすばらしさを減じさせるものだとは思いませんが、とりわけジャッキーが繊細な芝居を繰り広げるこの映画に限っては役者の生の声で楽しみたいという思いは残りました。その後、改めて字幕版を見る機会を得ました。これはやはり傑作だと思いました。いや、傑作などという仰々しい言葉は似つかわしくないかもしれない。けれども少なくとも私にとってこれはかけがえのない、愛すべき作品でありつづけるという確信を新たにしました。いつだって言葉は映画に追いつかない。そんなことは痛いほど身に沁みて知っています。しかしこの映画にはもう少し言葉を尽しておきたいと思いました。以下、やや長めの追記となります。

 まず、一度見ただけでは、あるいは吹替版を見ただけでは見落としていた映画の一貫性/反復性に気づきました。たとえば、ジャッキーがスミス坊やに対して幾度も「集中しろ」と繰り返していたことは誰しも強く記憶しているでしょうが、これは原語における「フォーカス」の訳でした。さらに冒頭、アメリカを離れる飛行機内において母親のタラジ・P・ヘンソンはスミス坊やに「(中国語のレッスンに)プリーズ・フォーカス」と云っていました。この時点で映画はすでに「フォーカス」という主題を導入していたのです。云うまでもなくフォーカスとはカメラで被写体を撮影する際、また物語を語る際の最も枢要な手続きのひとつです。だからと云ってそれを演出家や脚本家あるいはジャッキーによるメタ映画的言及であると主張するつもりはありませんが、この「フォーカス」が「教育」の映画たるジャッキー版『ベスト・キッド』にとって欠くべからざる語/行為であることは論をまたないでしょう。ジャッキーがスミス坊やに教えること、また逆にジャッキーがスミス坊やから教えられること、それはもちろん「人と人との絆の尊さ」であったり「どん底から立ち直れるかどうかは自分次第であること」であったりもするのですが、最も端的かつ具体的には「フォーカス」の重要性なのです。

 また、ラストカットはジャッキーとスミス坊やが笑顔で「拳を突き合わせる」というものでした。コミカル・ジャッキーのジャッキー・スマイルがほぼ封印されたこの映画にあって数少ないジャッキーの笑顔であるゆえひときわ印象深いラストカットでもあるのですが、この「拳を突き合わせる」という身振りはやはり、すでに冒頭でスミス坊やとスケートボードをくれる友達との間で交わされたものでもありました。もちろんアメリカにおいてはいたって日常的な身振りなのだと思われますが、反復要素によって映画を一貫したものに磨き上げようとする演出家の念入りな仕事ぶりが窺えるところです。

 もう少し冒頭にこだわってみたいと思います。先に私は、これが「照明の映画」でもあると書きつけました。そのクライマックス、つまり「照明の映画」であることが最も露骨に展開されたのがジャッキーとスミス坊やによる影絵のシーンだということでしたが、ここでそれを目撃するヘンソンに注がれる光もまた通り一遍のものではありませんでした。思い返せば、とりわけ「被写体への照明の当て方」という点でこの映画が最も大事に撮っていたのはややもするとヘンソンだったのかもしれません。そう思わせるものがすなわち冒頭にあるのですが、今まで住んできた部屋を出る間際、「勇敢な開拓者のような気分だわ」と云って新天地への期待と名残惜しさや感慨深さをない交ぜにしたような表情でキッチンを見回すヘンソンの顔のアップ。それを照らす光が実に美しく彼女を輝かせています。これも一般的なハリウッド映画の照明法からは外れたものであるという点で一種異様なものでもあるのですが、それこそまるで最も観客の感情を揺さぶる映画のクライマックスを形成するカットのように力いっぱいに撮られています。

 続いてスミス坊やとヘンソンは友人や隣人と別れのあいさつを交わし(そこで先ほど触れたスケートボード少年との別れも演じられます)、車に乗り込みます。この走り出した車の窓から外を写した、流れる景色のカットの情感はどうでしょう。今まで生まれ育ってきた町を段々と離れてゆくこと。その寂しさと苦さ、成長(時の流れ)の自覚、そして(そこにかぶさる音楽のため、また「これから映画が始まるのだ」という私たちの期待のためでしょうか)ほんの少しの爽やかさ。スミス坊やの感情が見事に反映された、いや、まるで彼の感情そのもののような画面です。ここでもハラルド・ズワルトはやはり周到な演出家だと思わずにはいられません。彼はここで小雨を降らせています。車窓を伝う水滴が、車窓外の景色とともにこれらのカット群を成立させているのです。

 ところで、これはジャンル映画と云ってよい「単純な」映画です。それがオリジナル版よりも長大な一四〇分間もの上映時間を持つこと、性格がねじけた私のことですから、普段ならば鬼の首を獲ったかのようにその点について批判を展開したでしょう。しかしこの映画に関してはそんな気が起きません。それは、私にはここに不要なシーンが認められないからです。もちろん「スミスとハン・ウェンウェンの逢引シーンなんていらねんだよ」と云う人もいるでしょう。しかしウェンウェンさんがゲーセンでダンスをする場面は私の最も好きなシーンでさえあるのです。とても可愛いらしいです。ダンスはもうちょっと下手なくらいでもよかったと思いますが。物語にとっては必ずしも不可欠ではないシーンや細部を、演出や役者の魅力によって映画にとっては必要なものに仕立て上げてしまうこと。それが映画の豊かさのひとつの在り方ではないでしょうか。

 懸念していた通り何やらまとまりの欠ける文章になってしまいましたが、最後にもう一点だけ述べておきたいと思います。スミス坊やはやっぱりとても上手ですね。彼に関しては「ウィル・スミスの完コピ説」やら「素顔は糞餓鬼説」やらも流布しているようで、前者には頷けるところもあり、後者については説というよりもはや確定情報ではないかとの情勢が強まっていますが、いずれにせよそれらはこの映画のすばらしさを損なうものではありません。ジャッキーあってこその映画であるという認識は揺らぎませんが、純粋にスミス坊やの表情や所作や台詞回しが映画を牽引していた箇所も多く、それは単純に出演シーンが多いからという理由で片付けられるものではないでしょう。

(評価:★4)

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