コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 借りぐらしのアリエッティ(2010/日)

アニメーションの、映画の、あるいはもっと広く表現一般の核心が描写の「細密化」と省略や誇張による「単純化」の按配にあるのだとすれば、やはりこの映画はそれについてのひとつの理想的な形を示していると云わざるをえないし、またその按配の独特さこそがスタジオの血統にほかならないと思わされる。
3819695

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







さて、『借りぐらしのアリエッティ』に生きる小人たちにとっての犯すべからざる禁忌はあくまでも人間に「見られること」であって、「存在を察知される(勘付かれる)こと」ではないらしい。さらに、ここで「見られること」とは顔なり身体なりを「直接」見られることに限定されている。躍動感溢れるアクションが切迫的なサスペンスを形成して印象深いカラス襲撃シークェンスにおいて、アリエッティは翔に対して「カーテン上のシルエット」という形で積極的に全身を晒してさえいる。どうして顔や身体を直接見られることだけが禁忌とされるのか。見られることで人間に生活を脅かされるから、という論は実際的観点から成立しない。彼らの生活を決定的に脅かしたのはアリエッティを視認した翔ではなく、むしろいくつかの状況証拠から小人の実在を推し量ったにすぎないハルである。それにもかかわらず彼らは「見られたか/見られていないか」の視覚的二元論に終始する。状況証拠がもたらすところの連続的に変化する実在性の濃淡はここで問題にされていない。ごく大局的に云って、このような視覚主義とでも呼ぶべきものは活版印刷・遠近法・自然科学以後の近代的な態度である。「映画」とは、おそらく、この視覚主義―視覚の欲望―の権化として生み落とされた極点的発明品にほかならない。『借りぐらしのアリエッティ』は映画的である。

しかし「見ること」「見られること」にまつわる『借りぐらしのアリエッティ』の、さらに云えば「映画」そのものの官能性を(アリエッティは翔に見られて「赤面」する!)、私たちは「近代的」の一語でもって認めることができるだろうか。たとえば、平安文学を開けば、そこには「女性の顔を見ること」がほとんど性的な行為と等しい(あるいはそれ以上の)ものとされる世界が広がっている。アリエッティにとっての「見られること」の重みはむしろそれに近い。小人たちにあってさえ近代的視覚主義が自明とされる映画世界であるがゆえ、「見られること」の禁忌は逆説的に即物性を超えた過剰な意味(官能性)を自身に背負わせる、といったところか。ただし、云うまでもなく、最も感動的であるのは、寸法を甚だしく異にして本来〈見る-見られる〉関係など成立するはずのなかったアリエッティと翔の間にそれが取り結ばれることである。「見ること」「見られること」を双方が等しく受け入れること、それこそが(たとえかりそめのものであるにしても)相互承認やコミュニケーションと呼ばれているところの何ものかだろう。そして、その表現を可能ならしめているのが縮尺の正確性であり、ある被写体がスクリーン上に占める面積はその被写体自身の絶対的寸法とは無縁のものであるという映画の原理だ。『借りぐらしのアリエッティ』は映画的である。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)づん[*] [*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。