[コメント] ディア・ドクター(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
木村祐一に象徴されるミスキャストが痛すぎた前作とは逆に今回は、鶴瓶というキャスティングによる勝利が光る。
西川の長篇作はどれも、嘘と真実の曖昧さという要素がプロットに埋め込まれているが、今回は「白衣」という視覚的なシンボルが用いられている分、より鮮烈にテーマが前面に表れている。
冒頭、薄暗い道を自転車で走る人影が遠くに見え、それが路上の白衣を拾って身にまとった瞬間、観客は、それが医師、或いは医師を装っているというふうに了解する。だが、その男は単に、拾ったから着てみただけであり、医師の振りをするつもりも無かったのだった。それが判明するカットでは、男の顔もちゃんと見える。遠くの小さな人影であった時には、彼自身は匿名性の内に沈み、白衣の象徴するものだけが観客に理解されていた。この、個々人と関わりの無い、「白衣」の強い意味性。これが本作の一つの肝だ。
一気にラストカットに言及しよう。失踪していた偽医師・伊野(笑福亭鶴瓶)は、病院の病床にいるかづ子(八千草薫)の前に現れるが、その顔も白いマスクで隠されている。「白」の意味性の中に身を隠すことによる再登場。だが、冒頭のカットとは異なり、観客の注意は、その「白」の中に隠された伊野という個人に向かう。身を隠していようとも、その丸顔と細い目とは、それまでの場面で数々のドラマを展開させてきた顔として、見間違えることのあり得ない対象となっているのだ。このラストシーンの前、駅のホームで刑事たちとすれ違っていた伊野は、派手なシャツを着て、予め白衣の意味性から解き放たれていた。そして、かづ子の前に彼が現れる直前、彼女を病院に入れさせた娘・りつ子(井川遥)は逆に、白衣姿で、誰かの呼び出しを受けた様子で歩き去っていく。
「彼は貴女に、何をしてくれましたか?」という刑事(松重豊)の問いに「いいえ、何も」と答えるかづ子は、嘘の共犯者でもあった伊野を見捨てたかのようにも見えるが、これもまた、伊野と相馬(瑛太)が「偽物」や「資格」といった言葉について行き違ったまま言い合うシーンと同様のダブルミーニングだろう。医師としての治療行為を何もしないことは、かづ子自身が望んだことなのだ。「いいえ、何も」の言葉に、伊野に対するどんな思いが込められていたのかは、観客が想像すべき所なのだろう。
癌を娘に告げないという「嘘」。伊野が、相馬の真赤なスポーツカーに乗って往診に行くシークェンス中、孤独に暮らす老婆が妄想にとり憑かれているのを彼が説得するシーンがある。斎門(香川照之)が彼女の妄想に調子を合わせ、「孤独に暮らしているからああなるんだ。誰かが相手をしてあげないと」などと主張するのに対し、伊野は医師としての義務に従って、妄想という「嘘」を払おうとしている。この辺りに、誠実な嘘つきとしての伊野のキャラクターがよく表れている。
伊野の失踪のきっかけとなった、りつ子の、しばらく母に会いに来られない、という一言。伊野はなぜこのシーンで、わざわざ会いに行ったかづ子に一言相談したり、或いは自身の一存でりつ子に真相を告げるという行為を選ばなかったのか。それは、命を預かるという重圧に耐え難くなったから――と言うだけでは、まだ充分でない。偽医師としての「嘘」によって患者の命を預かっていた彼だが、それは「来た球を打ち返していただけ」の救護活動としてのもの。だが、癌という事実に「嘘」をつくことは、来た球を打ち返すのではなく、球が来ていないかのように、それを自らの懐に隠すようなもの。この二重の嘘は、誠実な嘘つきである伊野には担いきれないものなのだ。
この、来た球を打ち返すことについては、伊野自身よりも巧く説明した者がいるのだが、それは、損得づくで伊野に協力しているかに見えた斎門だ。伊野はなぜ偽医者をしていたのかと問う刑事(松重豊)がバカにしたように口にした「愛ですか?」の一言に、その場で転倒して見せた斎門は、思わず手を差し伸べた刑事に「今、思わず手が出たでしょ?僕を愛していたからですか?…そんなワケないですよね」。このシーンによって伊野の嘘は、人間のさがとしての必然を獲得する。
伊野の往診シーンでは、道行く村人と挨拶を交わし、途中でスポーツカーを止めて「あそこがあの人の家ですから」云々と余貴美子演じる看護師が伊野に告げたりしていたが、伊野がバイクで逃走するシーンでは、途中の村人を無視して突っ走っていくそのスピードが、悔恨、羞恥、憔悴、安堵、誠実、卑怯、潔癖、臆病、迷妄、覚醒、等々の混在する複雑さを全て担っている。そのインパクトは『ダークナイト』に次ぐとさえ言えるだろう。
公開当時、“笑っていいとも”か何かでこの映画が話題になった際、医者役だと聞かされたタモリだかに「どうせ偽医者でしょ?」と突っ込まれた鶴瓶は、動揺しつつ否定できず、苦笑しながら認めてしまっていた。その瞬間、「ああ、手塚治虫の『ブラック・ジャック』のアノ話みたいなのか」と直感。故に、最初から殆どネタバレ状態で鑑賞。手塚は偽医者を、天才的な技術を持ちながら自身も無免許医であるブラック・ジャックと絡ませることで、短篇ならではの余韻を残すことに成功していたのだが、さて、西川美和が長篇映画に相応しい形でこのテーマを展開し得たかといえば、幾らか疑問が残る。
まず何より気になるのは、村人たちが皆、あまりにも「その他大勢」として処理され気味なこと。彼らの一人一人がそれぞれの自我を持って伊野に接しているという感触がまるで無いので、伊野が医師としての怪しさを露わにし始めても、村人の存在が緊張感をもたらさない。仮に彼らの内の誰かが何らかのアクションをすることがあるとしても、どうせプロット上の都合に合わせた駒としてだろうと容易に予測できてしまう。そのせいで村人との関係性は、最後に「鶴瓶さーん、また来てねー」で終わるのがお約束の“家族に乾杯”的な安心感に浸食されている。偽医師発覚後に村人が掌を反して見せても、脚本に書かれた通りにやってるのね、というふうにしか見えず、取って付けたような感じだ。
また、八千草薫は丁寧な演技ではあるが、かづ子というキャラクター自体に、「よき母親」という以上の奥行きが無さすぎる。例えば、亡夫の看護が彼女にとって大きな負担で、かづ子が家族を気遣う気持ちの中にはかつての自分への労わりの気持ちが多分に含まれている、等の陰影を含めても罰は当たらないと思うのだが。清純なおばあちゃんアイドルとしての八千草の安定感は、皇潤のCMなどに起用するには好都合なのだろうけれど、人間の生々しいドラマを欠如させる点で今回はマイナス面が強かったのではないか。
要は、個と個との関係性としての伊野の人物像が描き込まれておらず、故に、匿名的シンボルとしての白衣を、物理的には着込んでいても、心理的には脱ぎ捨てた最後の伊野の姿が、充分に胸に迫らない。刑事に対する斎門やかづ子の態度は、その複雑な裏を観客に読ませるよう計算されたものに相違ないが、その計算が透けて見えるのであり、彼らが伊野との間に交わしていた遣り取りの中に、そうした複雑さが覗いていたかといえば、かなり疑問と不満が残る。
『ゆれる』もそうだったのだが、西川が思い描く人間のリアルは、ダブルミーニングの仕掛けに見られるような観念性がどこかに漂いがちだ。上述したバイクで疾走=失踪シーンに見られるような本物の陰影をこの映画が幾分か獲得していたのは、それを演じた鶴瓶の仕事によるものだ。伊野という役柄自体も、白衣の象徴性に関するダブルミーニング(彼の医師としての信頼は、白衣によるのか、その働きによるのか、といったような)に沿った、些か観念的なものであったように思う。ダブルミーニングという程度に収まらない多義性を伊野に獲得させ得た鶴瓶による、シンボルとしての白衣の一義性の脱却そのものが、本作のドラマであったのだ。反面、やはり鶴瓶が鶴瓶として出すぎな印象も無きにしも非ず。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (2 人) | [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。