[コメント] 曼陀羅(1971/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
倦怠カップル清水紘治・森秋子は田村亮・桜井浩子とスワッピング。清水が倦怠の人生と道に迷って意識を失った少年時代の恍惚を下手糞な関西弁で回想。モーテル管理人室から岸田森は監視カメラでそれ聞いて素質があると手下の草野大悟に指示して森を砂浜で青姦。気絶した森見て興奮して始める清水。ふたりは裸のまま海で戯れ性解放を悦ぶ。
清水と森がモーテル再訪すると岸田らは褌で相撲。案内されたのは高山杉繁る山奥の農業自給自足の世界。別に新しき村ではなく岸田は風流な屋敷で煎茶など点てて「ここでは農業とエロチシズムが二本の大きな柱になっているんや」と下手糞な関西弁で語り「恍惚とは生きながら歴史の感覚を失うことを云うんや」と曼陀羅密教の秘儀伝授。バッハ風のオルガンが鳴り響く。集団で鍬立ての神事と開拓作業。木刀で剣道して男同士のキスもここではミシマ好み。岸田の妻若林美宏は白塗り巫女さんにして娼婦、日本の神もインドの神もミミズの神も取り憑くらしく半裸で悶える。原初的な仮面被った神事はやっぱり乱交パーティに至る。岸田はやたら指で数珠弄ぶ神仏習合。
田村・桜井は石庭で個と類の禅問答。田村は子供はほしくない人類の繁殖に寄与するなんて真っ平だ、学校にテロかけようかと思ったが統一と団結など真っ平と真っ平を連発。ひとりが好きらしい。結婚迫りお腹の子がスワッピングで清水の子かも知れないと悩む桜井だけ普通の人。堕胎失敗して鴨川の合流点でふたりが喧嘩していると新左翼の面々(赤ヘルに立命と書いてある)に見つけられて、田村は裏切り者らしく取り囲まれ『パッチギ』と同じルートで鴨川渡って逃げる。
さっさと洗脳され誘拐強姦魔と化した清水を監視カメラで眺めて岸田は部下に語る。古代ならで女は男をすぐに受け入れるはず、現代人はテレパシーの能力を失ったように官能の力も退化している、タブー視するようにさえなった、強姦されると一生不感症になる女まで現れる始末と無茶な感想漏らす。そもそも愛とは卑しいエゴの言葉。「愛の替わりにもっと適当な言葉があったんですが」岸田はどアップで応える。「仁」! 和を以て仁となす、個を共同体へと高める力や。ここでは太古の大らかな性とか原始共産制とかいうイメージが殆ど悪用されている。
田村・桜井は物語の便法でモーテル再訪して岸田・清水コンビに共同体に連れ込まれて新左翼論争。拡大再生産の資本主義社会では単純再生産のユートピアなど葬られる、カリスマ共同体は共産社会ではないと主張する田村に、清水は永久革命者を嗤い、壁から外れる日の丸バックに変革とは時を止めることだと語る。一方の桜井は強姦されて縊死。
田村は桜井探す。潜りの藪産科医菅井きん、自己批判書書いて学校に戻ったと語る吉村実子みたいな左時枝。共同体に殺されたと知って神の宿る処を無くしてやると巫女さんを強姦。本作は何しても強姦なのだ。巫女さん転落死。
岸田は死んだら有機物と巫女さんの遺体放置して、よく判らんがここは巫女さんの所有地だったのだろうか、共同体は沖の島目指して曼陀羅畳んで引越し。建物はついでのように失火してボーボー燃える。路上行く引越し風景もバッハ風オルガンで彩られ、これも神事なのだろうか。神仏の命ぜられるままになぜが神事のデコレーション済みの船盗んで雷蔵の『ぼんち』みたいな船出。
田村だけは船に乗らず、右傾化に乗り遅れた永久革命者の悲哀を噛みしめるかのように砂浜に座り込むのだが、目覚めると船は砂浜で崩壊しており、曼陀羅と日の丸が打ち捨てられ、遺体が並んでいる。看取った田村は憑依されたのかテロの決心固めたらしく、勝手にモーテル売った五百万円で日本刀購入して万葉集!買って、ひかり号で国会議事堂へ向かうのだった。
共同体は強姦しまくりだが別に政治テロルを目標にはしていなかった。田村は彼等を嫌っていたが、その滅亡を見てトリガーが引かれたようにテロルに走る。万葉集なんだから、彼にとって共同体は、保田與重郎のように日本太古を過激に解釈する触媒となったのだろうか。新左翼の終焉の予感が彼をしてそうさせたのだろう。新左翼からエコロジーに向かう者は多かったらしく、『遠雷』などその類型だろう。彼等の殆どは過激派ではなくなったのだから、本作は最悪を予言しているとも云えるが難癖をつけているようにも受け取れる。
動く『ラ・ジュテ』みたいな写真集みたいな映画(予告編は写真だけ)で、この動かない風景も時間の感覚を失う曼陀羅の思想の一環らしい。言葉がないエロは時間を超えるらしい。この方法論は共同体の思想を相対化せず映像に取り込むものであり、映画は岸田森の思想を相対化などせず骨絡みになっている。冒頭で主役だったはずの清水と森が終盤まるで科白がないのは、個が消滅して類になりおおせた結果なんだろう。清水の下宿で背表紙がなめて撮られる「「日本回帰」のドン・キホーテたち」はミシマの最期など論ずる71年の野島秀勝の評論集。ドン・キホーテを気取るのはテロリストの常道である。この監督、ミシマ主義のなれの果てが『帝都物語』の通俗という映画人生なのだろう。タントラ密教だからオウム真理教の「予言」でもある。性的行法の方便による女体連発にはATGの商魂も垣間見える。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (1 人) | [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。