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[コメント] 糧なき土地(1933/スペイン)

ブニュエルがどのような意図を持ってこの映画を撮ったのか、などということを私は当然のごとく知る由もないのだから、ただ映画を見たままの印象を述べる。このドキュメンタリは相当の「演出」の介在をもって成立している。「傾斜」の効いた実に映画的なロケーションやカットの配列の仕方にもそれは窺える。
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まず断っておくと、私が見た『糧なき土地』は英語ナレーション版であって、また正確さの程度も定かではない日本語字幕に頼って見た箇所が少なくないので、私がこの映画から受け取った言語的情報はオリジナル版のそれとはまるで異なっているという恐れがある。とりわけこの種の作品にあってはただナレーションを入れ替えるだけで映画が語っている内容を一八〇度変えてしまうことも不可能ではないからだ。しかしランニング・タイムはオリジナル版と一致していたようなので、画面そのものの展開には重大な改変が加えられていないと信じて以下を記述する。

云うまでもなく、たとえいかなるドキュメンタリ作品であってもいっさいの演出なしに成立はしない。云い換えれば、ドキュメンタリといえども多かれ少なかれ虚構性を有するのだが、この強い映画が生まれた背景にはやはり強い演出があったことが窺われる。決定的な箇所をひとつ挙げるならば、それは山羊が崖から落下するシーンだ。まず「山羊の肉を食するのはこういうときだけだ」といったような意味のナレーションとともに一頭の山羊が崖から転落する。カメラはロングの距離、崖の斜面に正対するような位置からそのさまを収める。次のカットは、同様の山羊の落下を、崖から身を乗り出すような形で真上から見下ろして撮っている。要するに「まるで演出家なりカメラマンなりその他のスタッフなりが山羊を突き落とし、そしてまさに今突き落としたその手でそれを撮り収めたかのような」カットなのだ。と、慎重にも私は直喩の云い回しを選択したが、山羊の落下のごときまったくの偶然のはずの出来事をベストポジション/ベストアングルで撮るには、「少なくとも何らかの」演出があったと見るのが合理的な考え方だろう。

また、村の農耕の様子を伝えるシークェンス内だったか、村人が一列になって獣道を歩むカット群はあまりに「映画的な」移動アクションの画面だ。その直後に置かれた毒蛇に咬まれたという村人、あるいは赤ん坊を亡くした母親を撮ったカットなど、そもそも人物の撮り方が多分に「劇映画的」である。さらに、その死んだ赤ん坊を川に流すシーンの直前では、赤ん坊を抱いた男が赤ん坊の顔に覆われた布をめくるのだが、その次のカットはなんとその男の主観としての赤ん坊の顔面アップカットなのだ。

さて、私は何が云いたいのか。つまり「ありのままの現実をありのままに伝える」という原理的に不可能な事柄がドキュメンタリの使命であると仮定するならば、『糧なき土地』はあまりにも胡散臭いドキュメンタリだ。と云うよりも、この映画はその「使命」とやらを積極的に放棄している。少なくとも私にはそう見える。しかし、その放棄を成し遂げる演出の仕方によって、『糧なき土地』は「映画」の面白さを獲得している。私はブニュエルがこの映画をドキュメンタリとして撮ろうとしたこと、およびそれが社会的/政治的な意図を含んでいたことを疑いはしない(疑うに足る証拠を持たない)。ただしそれ以上に確かだと思えるのは、ブニュエルが同時に「面白さ」も強く志向していたこと、そしてドキュメンタリとフィクションの成立要件ならびに両者の境界の曖昧さに対して探究的な態度で臨んでいたであろうことだ。

(評価:★3)

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