[コメント] それでもボクはやってない(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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警察や司法に限らず、福祉、教育、医療、その他多くの「現場」で、人手が足りない、追いつかない、その結果、正しく出来なければならないことが出来ない、という状態があちこちで慢性化しているという現実を思い起こさせてくれる。
人間の文明が数千年かけて、それもその時代の最も高い知性を有しているだろう人たちが集結して、人を裁くということに対して「この程度のことしかできない」という落胆(「心象を悪くする」とかそんなレベルの話かい?)を覚えたり、それでもスペインの宗教裁判よりマシなのかと思ったり。ふだん自分と関わりが薄い業界や世界は、少なくとも自分の関わっている業界とは違って「しっかりやっているんだろう」という思い違い。どこもかしこも「ここだけの話」だらけ、偽装だらけなんだろう。いままでの人間社会のやり方のここが限界点なのかも…とも思ったりする。
裁判官が言うようには、女子中学生の証言が「一貫している」ようには私には感じられなかったが、そのことが、現実のジャッジがあの程度の不確実さでも「一貫している」といわんとしているのか、話の展開のため脚本が強引になっているのか、そういう「本当」と「脚色」の境界の不明さが誤解を誘ってやしないかと少し気になったが、文明社会の、板一枚向こうの未開の地を認識させるには、揶揄や風刺ではなく、目の前の事実を淡々と描く手法でもっとも効を奏していたと思う。
確かに淡々とはしているが、目撃者の女性がなかなか現われず、展開が煮詰まっていくうちに、観客の多くが「目撃者さえ出てくれば…」の思いを強くするであろう、という状況を作っておいて、それであの「間違ってはいないがありがたくなかった」という証言で落す、というくだりはドラマチックで、「弁護人よろしいですか」の問いに、「結構です」と答えた役所広司の翳りを伴った微妙な演技もうまかったが、唯野未歩子のいい意味で俳優らしくない台詞まわしで、「痴漢をしているふうには、思えませんよね」と証言を締めくくってしまうところは、性善説者の業のようなものを感じさせてうめいてしまった。これを、小津作品の杉村春子が度々原節子を突き落としてきた無辜(むこ)を彷彿させる、と言ったら穿ちすぎでしょうか?
「求めよ、さらば与えられん」とキリストは言った。私はこの言葉の重さがわかった気がする。自分の潔白のために、友人や他人にビラを配らせたり、再現ビデオに協力してもらったり、傍聴に来てもらったり、さんざん迷惑をかけて、それで「俺の気が済む」だけでは済まないじゃないか、絶対に勝たなければみんなに申し訳ない、こんな穴だらけの制度に託し、膨大な時間を費やし無罪といわれるまで控訴し続ける気持ちは続くだろうか? 最初に認めてしまえば半日で終わったのに…、そこまでして貫く「正義」とは誰のためなのだろうか? 迷いを感じながらそれでも私は「求めること」ができるだろうか、と。
まやかしの制度から一歩外れることで、人間は本来その人生をかけて戦うしか他に生きられないのだ、ということに直面する。それこそが、この作品の本質的なテーマだと思う。
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