[コメント] 赤線地帯(1956/日)
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各シーンがひと段落ついた辺りで入るフェードアウトが、文字通り「闇に沈む」感覚を胸中に沁み込ませて来、シーンの閉じ方に応じて毎回異なる感慨が去来する。そして最後のフェードアウト。顔を半分だけ出して、道行く男たちに弱々しく声をかける生娘しず子のクローズアップ。それまでの劇中でそれぞれの生きざまを見せてくれた女たちも、最初はこの娘のようにおずおずとこの世界に入ったのではないかと想像させられ(しず子が、余り物の丼ぶりに「こんな美味しいものは食べたことがない」とがっつく場面もそうだ)、ラストショットで物語以前を見せられたような不思議な気持ちにさせられる。
だが、神戸から“夢の里”へやって来たあの元気娘のミッキーは、おずおずとなどしていなかった。「八頭身や」と自らの体を誇示し、シニカルで実利的な言動をあからさまに示す。そのがめつさは、やすみが父の災難のせいで仕方なしに選びとったようなものとは違う。他の女たち誰もが経済的な困窮から赤線で働いているのに対し、ミッキーは裕福な家庭に生まれ、ただ父の乱れた生活が母を苦しめたことなどへの反撥から、家を出て自活し始めたようだ。つまり、他の女たちが必死で求める経済的安心も、家庭が壊れていれば虚しいものなのだということが、ミッキーの親子関係に表れていると言える。ミッキーというあだ名も、親がつけた実名を厭うて使っているのかとも想像させる。
女たちは皆、何らかの形で家庭を背負っている。だから、売春防止法案が「流産」したと繰り返し告げるラジオのニュースが、子を作るつもりになど全くならない筈の男たちに体を売り続ける女たちの立場を言外に突いているように聞こえてしまうし、“夢の里”の主人を「おとうさん」と呼ぶのも皮肉に響く。この「おとうさん」は自分たちこそ困窮する女たちを庇護する社会事業の担い手だと豪語するが、新たな法律でこの「おとうさん」への借金がチャラになると踏んだ女たちが脱走を企てるシーンに表れているように、彼らの間に何か疑似家族的な絆があるなどとは言えないようだ。主人の自己弁護の言葉はそっくりそのまま二度言われるが、二度目はもう女たちはロクに聞いてもいない素振りだし、同じ台詞が二度言われることで、却って言葉だけが虚しく響く。この辺の作劇上の按配が巧み。
一つのショットに複数の女たちを詰めて醸しだす親密な空気がこの映画の魅力。これがあるからこそ、その内の或る女が一人になるシーンの断絶感が強調されるわけだ。彼女らが集合したシーンでは、それぞれが主人公であり、誰か一人が際立つことはない。だから、息子に親子の縁を切られて狂気の淵に沈んだゆめ子が、コミュニケーション不可能な存在として皆の注視を浴びるシーンは、それまでのシーンと違って彼女一人が群像の中からはみ出している様が痛切に感じられるのだ。ラストショットのしず子も、ミッキーに励まされてはいたが、彼女の孤立したアップで終わるからこそあの不穏な余韻が残るわけだ。
これは、小津安二郎が切り返しショットによって、登場人物が一対一で向き合う様子を丁寧に描くと同時に、人と人とが孤立した個人として向かい合うという断絶をも盛り込んでいたように思えるのとは対照的だ。(因みに、同じく切り返しショットといっても、アキ・カウリスマキが用いるそれは小津的冷徹さとは異なる印象を感じさせる。それは、ドラマトゥルギーや、被写体との距離のとり方などに起因するのだろう。たぶん)
基本的には愉快な群像劇として観ることが出来てしまう親しみやすい雰囲気の中から、突如として冷たい風のように噴き出す黒々とした断絶感が凄まじい。走り去る息子を追うゆめ子の前に横から車が邪魔してくるタイミングや、電線が画面の奥にのびていく寒々とした光景など、その計算性がまた冷酷であり、美しい。
黛敏郎の自己陶酔的な技巧を凝らした音楽は、全く内容にそぐわない。作品自体は音楽が無くとも完全に成立しそうな出来であるだけに、ヒトダマかUFOを乱舞させまくったような過剰な雰囲気作りが鬱陶しい。いかにも説明的で情緒的な劇伴にしていないのは良いのだが、「簡単に喜怒哀楽では割り切れない、不条理で不安な状況」を煽り立てているような煩さがある。そうした状況の演出は、溝口監督や達者な役者たちが充分にやってくれているのだから、音楽はほんの少し介添えする程度が適切だっただろう。
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