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[コメント] 幕末太陽傳(1957/日)

今観るとどうかと思うが、当時の「常識」を寄せ集めた当時としては「非常識」な映画。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
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当時流行りの「太陽族」で柳の下の泥鰌を狙おうか、という日活の会社企画だったそうだ。「誰に撮らせる?」「低予算で大ハズレしない川島にでもやらせとけ」ということで白羽の矢。この安易なスタートが、川島雄三を映画史上に残る監督に押し上げる結果となった作品。人生出会いって大切だよな。川島雄三の最高傑作と呼ばれることは疑問どころか否定するが、この作品が無かったら川島雄三は埋もれた監督、再評価されても単なるプログラムピクチャー職人でしかなかったことは間違いない。

いろんな古典落語がベースであることはいろんなところで語られている。ベースは「居残り左平次」だし、大きなエピソードに「品川心中」(最近ではあまり演じられない後段も出てくる)、途中「三枚起請」、下げは「お見立て」、ちょっと「親子茶屋」も。 調べてみると「明烏」の引用もと書いている場合もあるようだが、それは「三枚起請」の下げとの勘違い。「芝浜」と書いている場合もあるが、どこがどう「芝浜」なんだか。時計を拾ったことを指しているならお粗末この上ない。

この映画に於いて、古典落語の引用が分かるかどうかは、単なる知識自慢や、「ヒッチコック登場シーン」に代表される「裏の楽しみ」とは訳が違う。高杉晋作を知っている、石原裕次郎を知っている、というのと同じレベルで「居残り左平次」を知っていなければ、この映画の真の「非常識さ加減」が分からないような気がしている。

そこが「今(現代)観るとどうかと思う」ところなのだが、落語の登場人物や幕末の志士を「群衆」として「太陽族」に見立てることが、この映画最大の“キモ”なのだ。

「太陽族」が何だったかは、今となっては単に一風俗として理解するしかないのだが、当時の「常識」的若者文化を、当時の若者でも馴染みがあったか些か怪しい「古典落語」に置き換えた「非常識」さ。勝手な推測だが、裕次郎を見たい太陽族と古典落語は、ターゲットとして合致していなかったに違いない。マーケティング的にも非常識。ましてや、幕末の志士を太陽族に見立てること自体非常識。 しかし、それが単なる「奇をてらった」「異端の作品」で終わらない力量。それは、所謂“時代劇”と一線を画した“落語”であったことが大きな要素だと思うのだ。

夭逝したことと刹那的な思想が「太陽族」と重なって、「これぞ川島雄三」みたいに過大評価されている気がする。むしろ、本作で遺憾なく発揮されている狭い空間に大人数を出し入れする「猥雑さ」「生命力」こそ川島雄三だと思うんだけどなあ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (5 人)死ぬまでシネマ[*] イライザー7 TM(H19.1加入)[*] shiono ゑぎ

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