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[コメント] 血と砂(1965/日)

想像されたもうひとつの第二次大戦。クリークを効果的に挟んだ火葬場の戦闘のコマ割り描写の迫力もの凄い。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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もうひとつの第二次大戦の偽作の試みなのだろう。負けた戦争だけど、せめてこんな具合なら良かったのにという呟きと聞いた。冒頭の楽隊登場からしてそう宣言されている。

8月15日の北支で本作のような激戦があったはずもなく(終戦のビラ刷っているなら攻撃するなよと思う)、誰が観ても対米の太平洋戦争を想起するだろう。しかしアメリカは登場しない。そこで戸惑わされるのは楽隊が「聖者の行進」を演奏し続けること。これは当然ながら敵国アメリカの敵性音楽である。

殆どの戦後日本映画に軍批判はあっても反米はないのだが、ここまであっけらかんと親米路線だと感想が定まらないものがある。「聖者の行進」奏でながら死んでゆく兵たちに、隠喩としてアメリカへの非難を込めた、というニュアンスは感じられない。もちろんアメリカ政府とアメリカ文化はイコールではないし、『ジャズ大名』の監督が云いたいのもそこなのだろうけど、説明は一切ないからこれは良心的な解釈に属する。観ようによっては、日米同盟で中国と闘っている具合にも取れる(64年に中国は核実験を成功させている)。

しかしこの設定から、話は中国兵を徐々に全面に出し、フルート吹きたがる捕虜の木浪茂を真ん中に置いて彼等との関係を手探りし始める。『独立愚連隊』以来のスタンスが大いに深化させられており、八路軍を描く邦画自体が稀少、「麦と兵隊」的なアジア人蔑視とは無縁であり、戦場の敵対関係を一方で厳密に描くことによって『ビルマの竪琴』のような無理矢理感を免れている。そして双方の死者の弔いの類似を追いかけることにより、戦いの果ての相互理解が希求されている。

これがさらに明快なのは団令子。忠孝ではなく女を守るために戦うのだ、という自己認識は『肉弾』の大谷直子に繋がるものだが、ここではもっと過激。団演じるはお春こと金春芳、だから楽隊の面々は姑娘のために戦うと云っているのだ。ネトウヨ激怒の構図だろう。彼女に片言の日本語でお国に忠誠を誓わせているのだから八紘一宇系列とも取れるが、これはあらかじめ否定されている。靖国神社になんか帰るなよと伊藤雄之助は土饅頭に手を合わせるのだから。

ラストの全滅は甘さに流れるものはあるのだが、このような日中理解の理想は現実には起こらなかったという苦々しさが被さるのであり、相変わらず感想は定まらないが、戦中派が経験に拘りながら前を向いた作品と受け止めたい。従軍慰安婦描写は芳しくないが、当時の邦画にはこれを冗談ネタとして扱う風潮があったのであり、これをもって本作を責めても仕方がない。

三船敏郎の上官が仲代達矢という組合せは倒錯感があり、配役の妙。最後に突撃する厭戦家を演じて天本英世好演。凸ちゃんファンとしては、『二十四の瞳』の大石先生のご亭主はこのように亡くなったのだと記憶したい。軍歌を厭うて童謡を愛おし気に奏でる件を観てそう思った。

(評価:★4)

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