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[コメント] 惑星ソラリス(1972/露)

SFというジャンルに即した映画であること以上に、タルコフスキー最大の武器と云ってもよいパースペクティヴなロケーション撮影をほぼ封じてセット撮影に徹したという点で挑戦作。主人公の科学者役に肉体労働者のような風体の(よく云えばチャールズ・ブロンソン系の)男優を配するあたりも趣深い。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







クリスの脳内イメージを可視化したものであるところのハリーは、すなわち「映画」そのものと云ってよい。さしずめクリスは「作者」兼「フィルム」兼「映写機」兼「観客」であり、ソラリスの海面は「スクリーン」だろう。もちろん、この映画が「人間の条件とは何か」等々の問いを含みうるのはハリーが「可視化」にとどまらず「実体化」した存在であるからということを云い忘れてはならず、また彼女はクリスの記憶をトレースするだけでは飽きたらずにオリジナルの振舞いさえするのだから事態は穏やかではない。しかしながらハリーが実体=ニュートリノで組織された肉体を持っていると云っても、それは『惑星ソラリス』が拵えた約束事にすぎない。一方、ハリーが可視の存在であるということは私たちにとっても作中人物にとっても平等に確かなことである。それは、スクリーン上に映写されつつある映画がスクリーンを前にした観客全員にとって可視のものであることと同質の平等な確かさだ。この見方からもハリー=映画の図式が導き出される。

さて、この映画の結末に触れて、「ハッピー・エンディングだ!」と感動する者、「ホラーやん…」と恐がる者、さらには「わたくしはこれを『猿の惑星』オチと呼んでおります」などと嘯く者までいるというが、ここでハリー=映画/ソラリス=スクリーン説に則ったとき、これは「映画ばっかし見てっとこうなっちゃうよ」という映画ファンにとっては耳が痛くも甘美な誘惑の作品としての顔を見せてくる。だが、ことはそう単純ではないだろう。どれほど「映画ばっかし見て」いようと、私たちは現実に生きるしかなく、またそれを(たとえ意地でも、強がりでも)積極的に肯定しなくてはならない。だから私は『キートンの探偵学入門』が大好きだ。

(評価:★4)

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