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[コメント] めがね(2007/日)

宿の無機質な客室や誰もいない校庭・百貨店はむしろ恐怖映画の意匠であり、観客がこの映画に対して居心地の悪さや薄気味悪さを感じることを正当化してくれる。親切な監督さんである。
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ところで、脆弱な視力を補い矯正する道具であるところの「眼鏡」はこの映画において「物語にとって重要な人物」と「それ以外」を有無を云わさず峻別するという残酷きわまりない記号を演じているのだが、それ以上はいっさい説話に関与しようとしない。要するに「メインキャストが全員眼鏡をかけている」ことに何ら劇的な必然性がなく、何のドラマも生んでいない、ということなのだが、いくら『めがね』という題名を掲げ、メインキャストが全員眼鏡をかけているからといって、「眼鏡をかけていること」に必ずしも何らかの意味がなければならないなんてことはないし、「さも意味ありげに眼鏡をかけた連中ばかりが集まっておきながら、その眼鏡が何の劇的な役割も担わないなんて、実に映画らしいいいかげんさじゃないか」と云われれば、それに対して私はことさら首を横に振ることはしない。

しかし、なぜ「眼鏡」であり『めがね』なのか、という疑問はやはり残る。メインキャストを外見的特徴からひとつに括るものが「眼鏡」でなければならなかったのはなぜか。別に『ほくろ』や『アフロ』でもよかったではないか。

というわけで、「眼鏡」に何らかの積極的な意味があると仮定して考えてみる。既に述べたように、本来的に「眼鏡」とはファッション・アイテムでもなければ知性の象徴でもなく、「脆弱な視力を補い矯正する道具」である。ここで「脆弱な視力」とは生物学的な弱点にほかならない。生物学的な弱点であるがゆえに、それを「補い矯正する道具」であるところの「眼鏡」を装着する必要性が生まれるのだが、眼鏡の装着はその「脆弱な視力」という自己の弱点を周囲に晒す行為でもある。すなわち、民宿「ハマダ」に集う眼鏡をかけた人々は、同一の弱点を抱え、またそれを隠すことなく晒し合っている人々であると云うことができよう。そう考えれば、この映画のキャラクタたちの不気味な同質性は「眼鏡」ゆえの産物であり、その同質性はたとえば「ホクロ」では決して表現できなかったものだと納得する。ま、どーでもいいんですけどね。

(評価:★3)

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