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[コメント] 69 sixty nine(2004/日)

欠落感の欠落した青春映画。どれだけクオリティの高い映像を観せられても感じ入る隙がない。
林田乃丞

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 マスゲームと校庭の掃除を中止にさせたときの主人公のニヤリと笑ったあの表情を見て、心底ブン殴りてぇえーという気分になった。女にモテたいという動機で行動してたくせにいざとなったら思想を盾に正論を振り撒いて大人たちをやり込めることがそんなに気持ちいいのかよ。あんなものは矢崎少年の「己が魂の叫び」ではまったくないし、相手の弱みにつけこんだ卑劣な論法でしかない。しかもその発言のバックボーンとなっているのは矢崎少年が蔑んでやまないヘルメットとゲバ棒の理論なのである。

 この物語、原作は好きだったのだ。原作の矢崎少年はアダマに対して明らかに顔面的な意味でのコンプレックスを持っており、そうしたコンプレックスを払拭するがための理論武装だったことが明確に示唆されている。つまりはすべてが「非モテ男が女にモテるための悪あがきだった」としたうえで、しかもそうした理論武装が大人たちに通用する「便利な時代だった」ことも認めている。そこに龍の潔さがあったからこそ、バカどものバカ騒ぎ小説として成立し得たのだと思う。原作の『69』は「あのころ俺たちはシックスナインがしたくてしたくてしょうがなかった」という衝動がすべてであり、「シックスナインをするためなら時代だって都合よく利用してやるしかなかったんだ」という開き直りがあったからこそ、現代の若者にも通用する普遍性を獲得していたのだ。

 だが、映画の矢崎はアダマをも凌ぐ爽やか美少年であり、大人たちにその「借り物」の理論を振りかざすことに何ら後ろめたさを感じていない。無責任かつ堂々と語られる正論は最強である。小説矢崎は薄っぺらのトホホ高校生だったが、映画矢崎は最強のキャラクターなのだ。ここが原作と映画の最も大きな差異であって、私がこの非常に出来のいい映画を心から愛せない最大の理由でもある。

 青春を描くなら、例えば夜の校舎窓ガラス壊して回るしかなかった尾崎豊や、えーと、「宇宙人未来人超能力者以外は私に話しかけるな」と言い放った涼宮ハルヒほどの、そういう痛々しさはなくとも、せめてもの欠落感のカケラくらいは提示してほしい。でないと、私らどこに共感したらいいのか解らんですよ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)tredair 水那岐[*] ペペロンチーノ[*]

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