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[コメント] アカルイミライ(2002/日)

「明るい未来」という言葉の意味性を剥ぎ取った空疎な明瞭さとしての「アカルイミライ」。無意味に光り輝くことと、確かな未来としての死。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







真一郎(藤竜也)が、自身の経営するリサイクル店の従業員や雄二(オダギリジョー)という、息子くらいの年の青年と同乗したり独りで乗っていたりする車内のカットが左右に分割されている構図は、彼が息子・守(浅野忠信)と面会するシーンに於ける、対面し合う二人を隔てる黒い境界線(=ガラスの仕切り)が入るカットを髣髴とさせる。一つのショットに誰と誰が同時に収まっているか、に意識的な姿勢が見てとれる。それ故、終盤、分割画面の右側、この車のガラス越しに、遠くで真一郎と雄二が一緒に居る光景が小さく見えるショットが妙に印象的なのだが、それは、その小ささと曖昧な像とが、画面内に於ける二人の同居という光景を、拒むとまでは言わないが、意図的に遠ざけているように見えるからでもある。

面会シーンでの、雄二の前の四角い仕切りの向こうでフラフラと歩き回る守の姿はどこかクラゲに似て見える。「十年でも、二十年でも待ってるから」と訴える雄二になぜか失望してみせ、絶交を宣告した守は、階段を昇って去る際、頭上から照明を受け、クラゲのように光り輝く姿を見せて消える。自殺した後、リサイクル店で雄二と父の許に現れるシーンでは、死人として、死をその身に体現しつつ、人から触れられ得ない存在であるという、クラゲと殆ど同等の立場になっている。彼自身がクラゲ化したが為なのか、守は雄二がクラゲの為に作動させていた機械を故障させる。その際には「アカルイ」火花が散ることにもなる。

守の、何かに憑かれたような細かい指示に嫌気が差して苛立つ雄二は、クラゲの餌をぶちまける。真一郎と雨宿りするシーンでは、そこでクラゲを見つけたことを真一郎に教えた後、缶か何かを放り投げて「雨、やみましたよ」。街で知り合った高校生たちと一緒に泥棒に入るシーンでは、高校生たちが、シュレッダーで切られた紙屑だかを撒き散らす。リサイクル店の屋根の上に登って「何も見えなかった」と言う雄二は、アンテナを地面にバラバラと落としていた。空虚な光の明るさの他は、「放擲する」という行為によってのみ画面に華が添えられているという事実は、本作の、意図された「空疎なスペクタクル性」を証ししているのではないか。

雄二が藤原家に侵入し、守による惨殺行為の惨状を目の当たりにした後、その家の娘が一人でトボトボと歩く姿が見える。このことと、雄二がリサイクル店のテレビから流れてきたニュースで知る、大量発生したアカクラゲが幼い少女を刺し、一時その命を危うくしたという出来事。何か「若者」や「未来」の暗喩のように扱われるクラゲは、だが、雄二や高校生らよりも若い少女という「未来」を死の危険に晒してもいる。つまり、雄二や高校生らが「未来」を体現しているかのような構図そのものもまた、幾分か相対化されているのではないか。

息子や雄二らに対し、皮相な優しさを介してしか関われない真一郎が、川を行くクラゲの群れに「守の夢が叶った」などと無邪気にはしゃいでみせる姿は滑稽でしかないのだが、その真一郎の滑稽さ、更には無残さ、鈍感さ、ひょっとしたら醜悪さを、予め察知してそれに耐え難いとでもいうかのように、クラゲを発見した雄二はその光景から真一郎の視線を逸らそうとしていた。クラゲが妖しく光り輝いてみせる姿に何か「希望の光」のようなものを勝手に見出そうとする真一郎の優しさと、むしろそれ故の醜悪さ。クラゲが体現しているのが「死」という未来であること、その実体はおそらくは光り輝く空虚でしかないことを全く感受しない、皮相な善良さ。

クラゲたちが、東京を去り、海へ向かっていく光景を前に「いつか帰ってきますよ」という雄二の言葉に、真一郎は「十年先か、二十年先か」と、面会シーンで雄二が守に絶交されたのと同じような台詞を吐く。そして「そんなに待てるか」と水中に入るとクラゲを手につかんで倒れてしまうのだが、クラゲという形をとった「未来」を「待てない」としてつかんだ彼は、究極の未来としての「死」を一瞬つかんでしまうわけだ。それは奇しくも、守が「やるならさっさとやってくれ」と苛立っていた死刑という「未来」を自らつかんだ最期とも相通ずるものがある。

「私は全てを許す」と雄二を抱擁していた真一郎の擬似キリスト的許しの空虚さに対応するかのように、ラスト、雄二よりも更に若いあの高校生連中は、その、あの後で何となく警察に許されたらしい立場の気楽さで、解放感をもてあまし退屈していくように、街中をフラフラと歩き続けていく。窃盗シーンでは、頭に電飾を光らせて、クラゲとの同等性を誇示していた彼らは、ラストカットでは、ゲバラの顔がプリントされたTシャツを揃って着て街中を闊歩する。ゲバラという「革命」の象徴が、却って、この若者たちが世の中の何を変えるわけでもなさそうな空虚感を漂わす。

(評価:★4)

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