コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 雨に唄えば(1952/米)

時計仕掛けのオレンジ』にあの曲が使われた理由が分かった気がした。トーキー黎明期という時代設定をミュージカルに巧く活かしているのが美点だが、それを勧善懲悪に仕立てる陽気な単純さがやや難点。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







時計仕掛けのオレンジ』では、暴力的な映像に使われた音楽のせいで、その曲の印象が左右されてしまうという、音楽に対する映像の暴力性のようなものも描かれており、それはキューブリックが他作品で用いた音楽の使い方を思うとセルフ・パロディ的なところもあるのだけど、本作での、曇天の下でずぶ濡れになりながら陽気に唄い踊る“雨に唄えば”の場面は逆に、音楽が映像の印象を一変させる場面。

トーキーの登場によって、「悪声」とされた俳優が失業したというのは実際にあった話らしいけど、その「悪声」というのは果たして今の僕らが聞いても悪印象を受けるような声だったのだろうか。或る時代の美的規準のせいで、演技力云々以前に排除された俳優もいたのかもしれない。そんなことを時々思う僕としては、この映画でリナが、思い込みの激しさや性格の悪さ、頭の悪さ等々のマイナス要素を加味されつつも、そのわざとらしい「悪声」に彼女の悪役としての象徴性を持たせたのは、ちょっと残酷に思えてしまうのです。トーキー誕生当時の映画の舞台裏、という設定の物語だけに、もう少しサイレント俳優に対するリスペクトを感じさせるところも残してくれてもよかったのではないかな、と。

と、いうわけで僕としては、『時計仕掛けのオレンジ』にはリナの怨念がこもっていた、という強引な解釈も出来なくはないのです。一見すると陽気でポジティブな映画なのだけど、リナをいかに排除するかの策略をめぐらす物語としての善悪二元論を持ち込んだのには疑問を感じる。

ダンスと歌、色使い、カメラワーク、通常のドラマが徐々に身振り手振りと台詞回しのテンションを高めていって自然にミュージカルシーンに移行する手際のよさ等々は素晴らしいと思うだけに、陽気な単純さの持つ残酷さのようなものを嗅ぎとってしまったのは残念。そんな風に見るお前が捻くれているのだという批判は甘んじて受けますが。

後半のブロードウェイを舞台にした劇中劇はやや冗長に感じたが、思えば冒頭、ドンが自分の経歴を回想してみせる場面で、彼が「一流の舞台に立ってミュージカルを…」等々と嘘八百並べ立てるナレーションとは裏腹の、相棒コズモとの、辛酸をなめた苦労時代の映像。あのブロードウェイの場面は、かつて自分が果たせなかった夢を、映画という形で実現しようという意志の表れなのだろう。また中世の騎士物語であるらしいこのドンの出演映画に現代の場面を盛り込もうというアイデアを出したのが、相棒コズモであるというのが泣かせる。

この劇中劇でドンは失恋するさまを演じてみせるが、現実には彼にはキャシーという恋人との出逢いがあったのだ。彼女の存在が、一度は破れたミュージカルへの夢を映画でやり直すきっかけともなっていたことを思えば、このブロードウェイの場面が長いのも肯ける。それに、キャシーに「貴方のは演技じゃない。パントマイムよ」と批判されて落ち込むのも、冒頭の嘘に彼のコンプレックスが表れていたことで納得させられる。

ただ、これは鑑賞後に振り返って気がついたことであり、鑑賞中はそうしたことには気がつかなかった。これは、冒頭の苦労時代を苦労と感じさせるにはあまりにノリが軽い描き方だったせいだろう。また、ミュージカルを映画でやればいいんだ!という話になる以前から登場人物たちが唄って踊っていたので、観ているこちらとしては、ミュージカル映画誕生、というところでの高揚感が感じにくいというのもある。

あと、サイレント映画の演技を「パントマイム」と言ってバカにする辺りは、例えばチャップリンが観ていたら何と言っただろうか。世界共通語としてのパントマイムの芸に誇りを持っていたはずの彼が観れば…。

慣れない録音や、映像とのシンクロに四苦八苦する様子は、面白いと同時に、当時の苦労が偲ばれる。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)ジェリー[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。