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[コメント] 初恋のきた道(2000/中国)

全カットに於けるチャン・ツィイーの表情が、それぞれに美しく、それぞれに劇的。それ以外にこれといった見所が殆ど皆無というのもあるが、これはひたすら彼女の演じる村娘・ディの純朴な愛らしさを愛でる映画。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







やや太めのおさげ。それを揺らして振り向く様子。両端に桶を吊るした棒を担いで歩くシーンでの、バランスをとりながらトコトコと歩く姿。糸の束越しに透かし見える、織り機に向かう真剣な表情。防寒用の綿でも入れてあるのか、厚着なのか、モコモコした服。それを着て走るシーンでは、両腕を心もち広げ気味で頼りなげに走る。ピンクの服や、赤いマフラー、おさげを縛る黄緑色の紐の鮮やかさが、画面の中で彼女の存在を特別にする。それでいて、履いているのはジーンズのような藍色のズボンで、靴の色も地味であり、カラフルな上半身とのミスマッチが却って彼女の、歩き、走り、立って待つ、といった身体的な健気さと素朴さを際立たせる。「反動的」と見做された先生が町へ去るのを追うシーンでは、服がピンクから赤に変わることで、恋が愛に変わったのかとも感じさせられる。ツィイーの想い人である、町から来た先生は、どう見てもパッとしない地味な青年であり、先生としての教養や、控えめで優しい性格、礼儀正しさ、といった人畜無害な人物。観客が彼に嫉妬せずに、心置きなくツィイーに萌えていられるようにという配慮だろうか。彼に対するツィイーの憧れは、学校での朗読の声という、間接的なものに還元される。

この、「ツィイーたん萌え」を演出する為に全てが注がれた匠の技は、全篇がセオリー通りの安定した演出で固められているという形でも、アイドル映画としてのそのオーソドクシーを示す。餃子を入れた(小さめの椀を蓋として被せて、布でキュッと縛るという行為に込められた想い、コトコトと鳴る椀の音が何とも味わい深い)を手に、町へ去る先生を追うツィイーは、案の定、道の途中で足を滑らせて椀を割ってしまう。更には、「赤い服に合う」と先生に貰った赤い髪留めまで落としてしまう。ここで、髪留めを探して朝から晩まで歩き回るツィイーのシーンが挿まれることで、村は「先生の不在」の光景としての意味を塗られていく。この髪留めが見つかるのは結局、先生を追うシーンでツィイーが家を出るときに開け放っていた柵の辺りなのだが、家で見つかるということで、いずれ先生は彼女の許に戻ってくるのだという期待が高まる。更に加えて、どこからかやって来た老人の「瀬戸物の修理は要らんかね〜」。あの椀が修理されることでますます先生の帰還という幸福の予感が強まるのだが、ここで椀の修理を依頼したツィイーの母曰く「せめて娘の想い人の使った椀だけでも残してやりたくてね」。そして再び、椀が「先生の不在」の意味を担う。戸棚からこの椀を見つけたツィイーの、幸せと哀しみとを同時に噛みしめる表情が涙を誘う。

ツィイーと先生の関係は、「距離」を介して描かれる。村と町の距離。学校建設を、女は縁起が悪いからと遠くからしか眺められない距離。それゆえ、彼女が丹精込めて作った料理を先生が食べたのかどうか確かめられないということ。学校を眺めることでできるからと、ツィイーがわざわざ遠回りして水を汲みに行く表井戸(学校から水を汲みに来ようとツィイーの方へ近づく先生を、先生にそんなことをさせられないと奪う男との遣り取りや、町へ去らざるを得なくなる前のシーンでの、学校で男と先生が口論するシーンなどでも、この距離は活用されている)。家に先生を招いて食事を振舞うシーンでは、壁に空いた小窓越しに、ちらちらと視線を送り合う。道を生徒たちと共に歩く先生とすれ違う時、わざと落とした荷物を先生から手渡されたツィイーが、遠くへ歩いていったのに向けて、少年が叫ぶ「先生が名前を訊いたよ!」。学校の脇を通ってツィイーが朗読の声を聴く、その距離(彼女は40年間ずっと聴き続けていた)。特に「声」は、町へ去った先生の朗読の声を再びツィイーが聴くシーンで、先生が朗読しているのが九九であり、最初に読んでいた論語調の自作の文章とは違う全く抽象的な内容であることで、ツィイーが惹かれていたのは朗読の内容ではなく、やはりその声なのだという官能性が際立つ。これが結局は彼女の幻聴だったので、観ているこっちは些か心配になってくるのだが。

授業が行なわれず、荒れたままの学校をツィイーが修復するシーンでは、張り替えた障子が室内に、黄金色の光をもたらす。これは、先生を追って彼女が道を歩くシーンでの、背後で陽光に輝いていた黄色い葉を思わせる。そして、真の再会もやはり朗読の声という形で表されるのだが、先生の不在に耐えかねて寒空の中にいたせいで高熱を出したツィイーが伏せる姿は、そのシーンだけ妙に、灯火に浮かぶその顔が、垢抜けない素朴さを脱した女の表情に見えて驚かされる。そんな彼女の状態を知って、無理して村に帰った先生。「その後二年間、二人は会えなかった」という息子のナレーションが被さる画面は、だが、時間の厚みというものを全く感じさせないのだが、自分を想って無理して帰ってくれたという事実だけでツィイーにとって、時間など問題でなくなったのではないかとも感じられ、却って感動的でもある。

ツィイー=ディの一挙手一投足に観客が萌えるという以外の何ものも志向しないように見えるこの映画は、それでいて、モノクロで描かれた現代パートで、カラーの回想パートをサンドイッチにしている。そのことで、決して派手ではない素朴な風景が展開するツィイー・パートをより色鮮やかに感じさせることに成功しているわけだが、最初の現代パートの退屈さと比して、ツィイーの恋物語を経た後に再び帰ってきた現代パートでは、彼女の亡夫の棺を、たくさん集まってきた教え子たちが、報酬を拒んで長い道を担いで行く行進のシーンが胸を打つ。その光景を見ながら、「さすがに、そろそろこのシーンからカラーに変えてもいいのでは?むしろ帰るべきだろう」と思えてきたのだが、色彩はツィイーの専売特許だと言わんばかりに、頑なにモノクロ。そして現代パートの老ディの表情に、総天然色のツィイーが被さるということに。これはこれで悪くないのだが、このツィイー至上主義の徹底には恐れ入る。とはいえ、町で暮らしている息子の帰郷という形で、愛情の表現としての「距離」が継承されている点は感動的。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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