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[コメント] 人間の約束(1986/日)

人間が約束し得る事と、人間に約束されたもの。人間の尊厳と、人間の宿命。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







‘老い’は、自分とは別世界の出来事として眺めていられる内は、優しく見守る事も出来るが、何かのきっかけでそれが、自分自身の人生の内へ、未来の内へと侵入してくると、人はそれに対して、より具体的に、憎悪という感情を抱いてしまう。そうした心の微妙な綾が、殆ど恐怖映画と言えるほどの、鬼気迫る演出で描かれている。

テレビから大音量で流れるロック音楽や、亮作が歩く路を爆音を響かせて走って行くバイクの群れ、それと対照的な、廃品を掻き集めて「まだ使える」と言う、惚けた亮作。時間の荒波に揉まれたもの達と、それらを蹴散らしていく、まっさらな若さ。依志男の息子・鷹男は、「人間もああなっちゃ、動物と同じだ。どこか施設に隔離するべきだ」と冷たく言い放つ。彼に平手を打ち「人間には、言っていいこと悪いことがあるんだ」と叱りつける依志男だが、この言いようは、「心の内で思っていても、口にしてはいけない」という意味にも取れるような言葉だ。依志男夫婦もまた、実は心の何処かで同じ事を考えていて、しかしそれを自分に対しても他人に対しても認める事が出来ないから、余計に苦しみ、さらには老親への憎悪さえ芽生えてしまう。老親への憎悪、それは自らの偽善に対する怒りと、区別できない感情でもある。

鏡に映った自分の姿を他人と勘違いしたことに気づいた亮作が、鏡に手で水をかけ、その水に歪んだ自分の顔を見つめる場面は、タツが水鏡に映る自分の顔を恍惚と見つめる場面と重なる。この映画では、水は、解放の象徴であると同時に、死の象徴でもある。水に揺らめく自分の顔は恐ろしくとも、その水に顔を浸けて向こう側へ逝ってしまえば、恐れからも解放される。タツや亮作が小水を漏らす場面、自らの墓穴を掘った亮作と共に、依志男が水辺を見つめる場面、愛人に情欲を感じることが出来なくなった依志男が、雨の中に居る場面、タツを殺した依志男が水を吐く場面、等々、随所に水が現れる。水が現れるタイミングを観ているだけでも、様々な思いに駆り立てられるのだ。

濡れた衣に身を包んだ愛人を抱く依志男の場面のすぐあとに、亮作が、床擦れの痛みを訴えるタツを抱く場面になる。依志男は、まだ残された若さから来る欲望をもって愛人を抱くが、亮作は、老いた中にも残る愛情をもって妻を抱く。この対照は後に、同じように痛みを訴えるタツを抱いた亮作が、老母の萎んだ肉体を目の当たりにしたせいで、愛人を抱けなくなる場面へと繋がるのだ。タツが亮作に自分の世話をさせるのは、彼の妻がタツを見殺しにしそうになったからであり、言わば間接的に、妻に浮気の復讐をされた格好にもなっている点にも注目すべきかも知れない。

この映画のラストシーンは、車をカーブさせ、警察に戻る場面だが、これと同じように、車を戻す場面が、ちょうど映画の中間辺りにもある。律子が、病院からタツを引き取ると言って車を戻させる場面だ。ラストシーンでは逆に、依志男がタツを殺したことを自供する為に戻る。だが、そうした事態に至ったのは、律子がタツを自宅に戻したからでもある。ここに「人間の約束」という題名の逆説がある。律子が車を反転させたのは、鷹男の言うような、「痴呆老人は動物と一緒なんだから、家族が関わる必要は無い。国が施設に入れたら良いんだ」という考えに逆らうような意味合いがあった、つまりタツを「人間」として扱いたい、という感情が働いていた筈だ。だが、そのことによって律子自身もまた、老いてなお女であることに執着する老人という、「人間」の性(さが)を目の当たりにさせられるのだ。そして依志男は、そんな老人を「人間」の地位から追い落とす、つまりは殺害してしまったわけだ。だが、タツが「死なせて」と懇願したのは、「人間」として死にたかったからとも思える。結局、人間的なるものは、非人間的なものと表裏一体でしかありえないのかも知れない。

「‘人間’の約束」とは、最後まで‘動物’としてではなく‘人’として生きる為に交わされる約束。しかし人であるが故に、果たす事の出来ない約束でもある。果たせなかった全ての約束は、社会からも現実からも別れた、幸福な回想と夢との溶け合う非現実の世界の中でだけ実を結ぶ。タツの安楽死、タツとの巡礼、その両方の望みを叶えてやったつもりでいる、痴呆状態の亮作は、完全にタツと二人だけの世界に没入している。これはもう、究極の純愛映画。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)ぽんしゅう[*]

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