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[コメント] 映画は映画だ(2008/韓国)

俳優とヤクザが共に似たような短髪・ヒゲヅラ、前者が白、後者が黒のシャツ、前者が撮影時にはその上に黒の上着をまとうという、あまりに図式的な構図がいかにもキム・ギドク
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この二人による、クライマックスのガチンコ勝負では、激しい格闘を行なうに従って、互いに泥まみれになり、どちらがどちらなのか判別不可能になっていく。虚と実の不可識別閾。このシーンの後、ヤクザのガンペ(ソ・ジソブ)は俳優スタ(カン・ジファン)に、かつて彼がスタから言われた「役者らしくなったな」という台詞を吐く。ここで虚(俳優)と実(ヤクザ)の混淆は「友情」と呼べる関係性として提示されたかに見える。

だが、続くシーンが曲者だ。まず、それまでとは逆に、ガンペが白いシャツの上に黒い上着、スタは黒いシャツ(但し白いプリント有り)に黒い上着。ガンペはスタに「お前がカメラだ」と言ってついて来させ、自分を裏切ったパク社長を撲殺するのだ。本物の暴力の凄惨さに吐き気を表すスタ。ここで撲殺に使われているのは、社長がそのとき手に持っていた仏像。かつてこの社長から「何か信じられるものを持て」と忠告を受けていたガンペは、「信仰」の象徴である像によって殺しを実行する。

映画ファンであるガンペは、恐らくは「映画」に「信仰」の拠り所を求めていた。実際ガンペは、劇中劇としての映画の台詞「死人として生きていけ」を、ぺク会長を裏切った社長の粛清に際して模倣し、社長を見逃した結果、現実としての窮地に立たされる。映画の出演要請を受けたガンペがスタとのガチンコ勝負を要求する行為からは、俳優の夢破れてヤクザとして暮らす彼が、現実の暴力の使い手として映画に勝負を挑むという、屈折したプライドが覗いていた。だが、映画と現実の決定的な違いは、暴力の、取り返しのつかない結果としての「死」が介在しているかどうかだ。それ故、映画撮影中のガンペは社長に「死」を与えることを拒むことで、彼なりの信仰心(少なくとも、その芽生え)を示していた。だがそのせいで、「信じられるものを持て」という言を吐いた当人からの裏切りという現実に直面させられることになるのだ。

対して、ガンペが映画を現実と取り違えることによる幸福も描かれていた。彼が、女優ミナ(ホン・スヒョン)が海に身を沈めるのを止めるシーンでは、カメラがガンペの見えない位置に置かれていただけで、実は映画のワンシーンを撮影していたに過ぎなかったのだが、本気で彼女を救おうとしたことで、二人の距離は接近する。カメラの介在と不在というただ一点が、虚と実を隔てる境界となる。ガンペと会長との面会シーンでは、二人を隔てるガラスに、囲碁の盤が描かれた透明シートを貼って勝負をする光景が面白いのだが、この、ガラスの向こうの会長の掌の上で踊らされるガンペが最後に連行されるシーンで、パトカーの窓ガラスを頭突きで割るアクションは、暗喩としてのカメラのレンズの破壊ということなんだろうか。

虚と実の交錯。それを描く構図がどうにも幼稚に思えるのは、白と黒による色分けとか、ガンペとスタの分身性とか、絵づらの観念性のみによるのではない。映画撮影シーンに於けるガチンコ勝負が、本作の世界に於いては「ガチンコ」に他ならない一方、それ自体が映画である『映画は映画だ』のワンシーンとしては、レンズに写され、フィルムに記録され編集された映像として、単に“「ガチンコ」に見える、乃至はフィクション内の位置づけとして「ガチンコ」として扱われている”という以上のものではないという現実。そうした曖昧さをメタフィクションとして取り込んでいると言えないこともないこの映画が、それでもやはり幼稚なのは、映画と現実の、越境の危険に晒される境界線として、「暴力」を用いていること。拳が実際に相手役の肉体を打つという「現実」を映画に持ち込んだ後、「死」というもう一つの「現実」が、俳優とヤクザを隔てるという筋書きは、要は虚実の線引きをどこに置くかという話以上のものではない。

勿論、最後に描かれた「死」もまた本作が描く虚構の一つに過ぎない、という自己言及性を見てとることも可能だが、そうすると今度はその「死」が虚構の映像として向こう側に退いてしまい、結局は観客も制作者も、現実の暴力から隔てられた安全地帯から「暴力の越境」という虚構を眺めているに過ぎないことになる。

映像は、例えば「モキュメンタリー」と呼ばれるジャンルに見られるように、「現実」の指標となるものもまた虚構の本当らしさを演出する要素として取り込んでしまう面がある。或いは、俳優が自分の演じた役の感情を実生活でも引きずってしまうことがあるように、または、或る映画の内容が現実の社会情勢と照らし合わされたり、観客の実体験が或る映画の一場面によって生々しく甦ることがあるように、映画は単なる「嘘」というよりは、現実らしさの一つの展開の仕方であったり、それ自体が一つのフィルム体験としての現実と呼ぶべきものであったりするわけだ。

『映画は映画だ』は、ガンペに虚と実を往き来させつつも、その境界線をどこに置くかという主題に収束してしまう。彼と共演する女優ミナとの恋愛もまた、その主題の添え物として描かれているのみだ。この恋が、映画内映画に於ける虚構の恋と混じり合い、ガンペの目の前で笑ってみたり泣いてみせたりする彼女の表情が、演じられたものなのか本当の感情なのか分からなくなるような瞬間は、ついぞ訪れない。そうした点でも、実に安全かつ観念的に白と黒の陣取りゲームを描いた映画。ガンペが会長と碁をするシーンも、白と黒の勝負という暗喩だろう。スタが、顔を隠して逢い引きしていた恋人との関係を衆目に晒す結末も、ガンペの悲惨と対照的な、「映画」スターであることと「現実」の恋の幸福な越境という、何とも分かりやすい構図。

(評価:★3)

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