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[コメント] ラースと、その彼女(2007/米)

人形が人間扱いされることの可笑しみと悲哀が充分に演出されていない。完全に、人形を巡る人間模様に焦点が合わされており、ラースが人形を「Real Girl(本当の女の子)」として愛する主観視点は演出家の眼中に無いかのようだ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ラースが人形に寄せる主観的な思い入れが描かれていないことは、つまり、最終的には人形と別れ、生身の人間たちの社会に溶け込んでいくべきだ、という、結論にして、物語の結末でもある終着点が最初から前提にされており、それ以外の可能性が排されているということでもある。要は、多分に単眼的な見方によって物語が運ばれているのだ。

結論が最初から前提されていることで、ラースが人形と別れる場面の哀感もどこか他人事としてしか感じられないし、劇的な感動にも欠ける。職場の親しい同僚が、フィギュアやテディベアに執着していることや、教会の人々が、それぞれ同席者の家族の奇癖を挙げ、ラースを異端視しないよう努める場面などからは、ラースの思い込みの奇妙さを際立たせるのを避けようとする姿勢が見てとれる。問題は、そうした人々の姿勢に、演出までもが完全に同調していること。むしろ、ラースの妄想に付き合って演技する人々の様子も含めて、一歩退いた視点から撮ることができていれば、コミカルさも、感動も、より増した筈なのだが。

とはいえ、例えばラースがテディベアを「蘇生」させる場面に溢れるユーモアと温かみは捨て難い。優しさ溢れる反面、厳しさに欠けた結果淡白になった嫌いはあるこの作品だが、厳しさを全く欠いていたわけではない。人形・ビアンカを人々に紹介し、認知させようとするラースだが、その望み通りにビアンカが皆から一個の人格として扱われるようになった結果、ラースとの一対一の関係以外に、第三者との関係を持ち始めたビアンカに、当のラースが違和感を覚え始めるのだ。人格が人格として認められるには、第三者の承認が必要だが、そのことでビアンカが、ラースが思い通りに妄想できるような女性からは自立していくというジレンマ。

つまり、RealなGirlと恋愛をするには、自分の思い通りにならない相手を受け入れるということが必要なのだ。人形は、その教訓を示すアイテムとして登場したのみであり、クレイグ・ギレスピーは、被写体としてのビアンカに殆ど興味が無かったのだろう。

ラースから避けられたマーゴは、「寂しかったから」と、他のボーイフレンドを作るのだが、寂しさを補うものとして何かを愛そうとするという点では、ラースが人形に寄せた愛情と同じものとして描かれていたように見える。だが、「人形を愛する」ということの特異さをことごとく、人が皆持っている性質との程度問題に解消していくこの作品は、映画としての旨みを自ら刈り取っているように思えて仕方がない。敢えてそうしたのだというならそれも一つのアプローチなのかもしれないが、何となく優しく撮っていたらこうなった、というようなことだとしたら、脚本を消化する以上のことはしていないと言わざるを得ない。

脚本にしても、ラースとは逆に、生身の女性をラブドールのように性欲のはけ口にする男が登場したりすれば、一つの大きなアクセントになったかもしれないが、ダッチワイフなどという素材を扱いながらもこの作品、妙に生々しさを避けようとする傾向がある。結局、このファンタジックな設定をソフトに展開することが主眼であり、物語の孕む主題には、あまり深く付き合うつもりがなかったのだろう。やはり、「優しさ」で本当に人を感動させるには、その裏面としての「冷たさ」や「厳しさ」への眼差しもまた、不可欠なのではないだろうか?

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)ぽんしゅう[*]

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