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[コメント] 純喫茶磯辺(2008/日)

台詞に頻出する「アレ」のわざとらしさが少し鼻につくが、この語にも漂う日常的な曖昧さ・微妙な齟齬が、全篇をとぼけたユーモアで包むのみならず、人生の綾まで描いて巧み。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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裕次郎(宮迫博之) 、咲子(仲里依紗) 、麦子(濱田マリ)が久しぶりに三人揃ってレストランで食事をするシーンでの、喧嘩をしながら注文をする様子の可笑しさ。裕次郎と素子(麻生久美子)が大人のバカ話をしている飲み屋に咲子がやってくるシーンでの、咲子の場違いな存在がそのまま、大人の世界と咲子のギャップであること。そして何より、裕次郎の思いつきといい加減さから生まれた純喫茶磯辺の、ダサい内装も、メニューの手抜き具合も、共に手作り感を醸しだし、学園祭的な一過性の祝祭と儚さとを漂わせていること。「外での飲食」という、日常的でありながらも、ちょっとした異空間でもある場を横切るドラマ。

咲子が安田(和田聰宏)の家を訪ねるシーンでのサスペンスや、純喫茶磯辺での、裕次郎と小沢(ダンカン)の、マスターとお客という関係が静かに崩壊していった果ての乱闘シーン。偶然再会した咲子と素子が、裕次郎が喫茶店を始めたきっかけとなった喫茶店で会話を交わし、お終いにマスターから、裕次郎が作ったようなダサいストラップを貰って思わず笑いあう光景の、ドラマ的な円環。全体的に、この映画の演出は、或る人物同士が、或る場所を共有していることのドラマ性、その組み合わせの数々を見せるという手法の展開という印象がある。

また、元カレに殴られた素子が、敢然と抗議するその表情とは裏腹に、スッと鼻血を垂らしたところで、シーンもスッと切ってしまう、そうした呼吸も良い。北海道に帰るという素子を追って、咲子が駆ける傍らを、自転車に乗った裕次郎が猛スピードで追い越していくシーンは、その速度がそのまま素子への想いの強さの差の表現になっている。素子が咲子と最初に再会するシーンでも、咲子が歩く後ろに、素子がフッとフレーム内に入ってきてから声をかける、そのさり気なさ。吉田恵輔はこのように、目で見て、感じる、その瞬間的な感覚を確かに捉えるセンスがある。つまり、演出が出来ているということだ。台詞も無いミッキー・カーチスの佇まいそのものを「マスターに間違われる」という形で活かしてしまうなんていうヌケヌケとした演出の仕方なども見事。

宮迫は、役柄が『蛇イチゴ』での兄役と一脈相通ずるところがある。娘・咲子の視点があるおかげで、単独ではただのチャランポランな男でしかないのかも知れない裕次郎の、やや自由すぎるような行動にも一種の大らかさ、包容感が生まれる。一方、素子は、あの程度の裏と表の顔の違いは現実にいかにもありそうであるし、彼女なりの葛藤なり何なりを抱えていそうでもあるが、咲子視点からすれば、大人の女の不可解さそのものでもある。二度目の再会シーンでの、妊婦となっている素子が半分にして差し出すドラ焼きの意味不明な巨大さはむしろ、素子の存在そのものの不条理さをユーモアでオブラートに包んでいるように見える。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)サイモン64[*]

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