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[コメント] イノセンス(2004/日)

人形と、犬。それは男が女性に求める幻想の、両極の謂いである。(前作『攻殻』のネタバレ含む→)
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







劇中の仏陀の言葉「孤独に歩め…」は本来、「聡明な伴侶が得られなければ」に続く。人という不完全な存在の伴侶、人形と動物。犬に執着するバトーと、娘に執着するトグサは、共に、前作の清掃員の陰画だと言える。この清掃員は、人形使いによって擬似記憶を与えられ、自分が飼い犬と写っている写真を、存在しない娘との写真だと思い込んでいた。ここには、脳の中の記憶と、外部記憶としての映像・写真との齟齬もまた、表されていた。この、機械化と身体性、視覚と記憶の関係は、映画のラストで、犬を抱くバトーの義眼が、トグサの娘が抱く人形のガラスの眼と対峙させられる場面にも、暗示されていた筈。

「ハダリーは‘理想’でしかない。処女というか独身者というか、いずれにせよ彼女が指し示すもの、それはひたすらありうべからざる聖婚なのだ」(ミッシェル・カルージュ≪独身者の機械≫)。男が女性に対して抱く理想像も多分、ペットとお人形。それは例えば、「昼は淑女のように、夜は娼婦のように」というのもその一つ。整えられた、マネキン的な形式美と、生身の体温、赤裸々な本能。或いは、動物的な無邪気さを求めるロリータ・コンプレックス的な極と、萌えフィギュアのように無機質な完璧さ、理想化を求めるという両極端にも表れているように思える。押井氏は著書≪イノセンス創作ノート≫で、アニメに於ける記号的身体として、美少女のデフォルメされたプロポーションと、巨大ロボットを挙げている。パトレイバー・シリーズは後者に当たり、この『イノセンス』は前者に当たるわけだ。『パトレイバー1』がレイバー(労働者)の反乱なら、今度はダッチワイフの反乱。初稿台本によるとガイノイドという名称は、アンドロイドがman同様に男性と人一般を指す、西欧的家父長的語源を持つのに対抗し、雌性を意味するgynoから命名したらしい。一方、手間のかかる犬を世話するバトーには、身体のかけがえのなさへの執着が感じ取れる。もしハダリが素子に似ていなくても、彼はジャケットを着せただろうか。

本作の映像は、C.カニンガムによるビョーク“All is full of love”のPV、スピルバーグ『A.I.』の影響が見える。前者は、中国のエロティックな象牙の彫刻から着想を得たそうだが、押井氏も、人形はもっと艶っぽくしたかったらしい(成功していれば、社会学者の宮台真司氏が「パトレイバーに比べメッセージが弱い」と言わなかったかも)。ハラウェイの居る鑑識課が真っ白なのも、‘天国'をイメージしたカニンガムの映像の影響だろう。 肉体の復活を信じるキリスト教では、火葬が禁じられていた(だから異端者は火炙りにしたのかな)。しかし、魂が物や身体に憑いては離れるという観念は、神道などでは自然だ。本作の、人形を焼く祭礼や‘チャイニーズ・ゴシック'が暗示する、情報化の先の、宗教的な混交…。

3DのCGと、2Dのセル画のズレは、監督の意図らしい。現に今、セル画のキャラと写実的な背景画が普通なのだから、細密な3Dとの違和感も無くなるのではないか、という、一つの実験だという。しかしそれとはまた別に、この映画の主題に添って見れば、登場人物が背景から浮き立ち、観客にとってどこか違和感を感じさせる存在に見えるのは、身体性の曖昧さ、希薄さという、物語の根幹に関わる表現だとも感じられる。

OPの最後、ハダリの瞳に彼女自身の姿が映る。複製人形の眼を見つめる観客自身の、身体性の無化の暗喩だろうか。『パトレイバー』ではモニターが人を捉えていた。もはや機械自体が人の形をとり、義眼が「人には人の顔、獅子には獅子の顔となる神の顔」(クザーヌス)の眼差しのように観客を射す。人は人形に魂(ゴースト)を吹き込もうとするが、人形に魂が宿るなら、人体と機械人形に区別はない。「人形は魂の容れ物。魂を容れるのはそれを見ている人」(四谷シモン)。

劇中の猟奇殺人は、ハダリの解体の描写との対比だろう。「唯物論に凝り固まった人でさえ、今だ宗教的であり、人間を単なる物に――照り焼き、煮込みシチュー…にすることは罪なのだ」(バタイユ)。『パト』の、犯人の足跡を追う場面に残されていた、廃墟の暗喩のような空の鳥篭が、殺害現場にも残されている。もはや建物ではなく、人体が廃墟になったのだ。祭礼の巨大な人形たちは、『パト』で都市と対峙していたレイバーが、遂に完全に街と融合した姿のようでもある。

バトーは言う、「都市もまた外部記憶装置」。監督曰く「人は言葉を得たことで、身体を失った」。観念が身体に取って代わる。前作の‘人形使い’の台詞を捩って言えば、「言葉が記憶の外部化を可能にした時、人はその意味をもっと真剣に考えるべきだった」。言葉でありヴィジュアルでもある漢字が、映像を埋める。元々、解読を待つ暗喩、象形文字のような押井作品が、自ら文字群=論文と化した観だ。音と意味を表わす部位の組み合わせであり、多義性を織り込む漢字は、引用が織り成す本作のメタファーとも言えるだろう。映画『イノセンス』は、‘都市-身体-映像'の三位一体を表す、一つの巨大な漢字なのだ。

因みに、この作品のネタ本があるとすれば、ミッシェル・カルージュの≪独身者の機械≫だろう。映画冒頭の、≪未来のイヴ≫からの引用文や、レーモン・ルーセルの≪ロクス・ソルス≫の名の引用、更に、DVDの特典に付いていた、構想段階の台本には、そのものズバリ、≪独身者の機械≫の書名が確認できる。

(評価:★4)

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