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[コメント] マッチ工場の少女(1990/フィンランド)

これは革命の映画である。
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







劇中のニュース映像で、有名な「戦車の前に一人で立ち向かう人」が映し出される。言ってみればこの映画は、一人の少女による「一人天安門事件」のようなものであり、抑圧された世界に対する革命の映画なのだ。

マッチ工場で働き、働かない両親に搾取される生活を送る少女は、マッチ箱のような狭い世界に住んでいた。そんな少女に小さな希望が訪れるが、希望の火は幻にすぎなかった。絶望の中で、ついに彼女は自らの呪われた運命に立ち向かう。あの戦車の前に立った若者のように。両親による搾取は共産主義社会であり、彼女をもてあそぶ男は、なんでも金が優先される資本主義社会と受け取れる。そして彼女はそのどちらにも裏切られてしまうのだ。彼女が求めたものに主義主張などは関係なかった。彼女はただ、愛がほしかっただけなのだ。

そして少女は自分を苦しめた人間たちの命の火を次々に消してゆく。彼女はれっきとした連続殺人犯であり、それ自体は赦されるものではない。だがこれを現代の寓話と考えるならば、彼女の行為は虐げられた現状を変えようとする孤独な革命であり、それを実行した彼女に、新たな世界がもたらされたと言えるのだ。

カウリスマキの映画では、つねに家族や仲間への愛情が描かれている。しかしこの映画に愛はなく、愛されなかった少女が殺人を犯す。だがそれは少女の罪というよりは、少女に愛を与えなかった者たちに対するカウリスマキ監督自身の裁きだったと見るべきだろう。監督にとっては、共産主義も資本主義も問題ではない。大切なのは、そこに愛があるかどうか、ということだけなのだ。そして監督は、そんな愛のない世界から少女を連れ出すことで、彼女を解放するのであった。それは少女に対する監督自身の「救い」であると同時に、現実の世界で抑圧に苦しむすべての人々に対する監督の「思い」だったのではないだろうか。毒性の強い映画ではあるが、主人公を見つめる監督の眼差しには、マッチの灯のような温もりが感じられた。おそらく監督にとっては、映画という存在自体がマッチの灯なのだ。それは消えることのないマッチであり、いつまでも我々の心に小さな光を灯してくれる。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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