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[コメント] 遠くの空に消えた(2007/日)

浮遊感漂う馬酔村同様に、映画自体が散漫なまま浮遊しちゃってる印象を受けるけど、「こんなところがあってもいいんじゃないか?」「こんなところがあったら行ってみたい」と思いながら観ていると実に心地よかった。
JKF

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







初めに言っておくと、誰の視点で語られた物語なのかわからない話であるということは実に致命的である。亮介が過去を回想する形で始まっている物語のはずなのに(しかも回想に入るまでの導入部がこれまた不自然)、友情物語は父親世代にまで掘り下げられているし、女教師のエピソードは物語から独立しているうえ、不要である。こんなんでは、この映画はいったい誰が主人公で誰の視点で語られている物語なんだって突っ込みたくなる。明らかに脚本、編集の段階で穴があるということになる。

さらに父への不信感を募らせる亮介と、父を信じ続けるヒハル、そして長い間帰ってこなかった公平といった具合に子供たちにも三者三様に父との関係が存在していたはずなのに、ここに象徴されるように三人のドラマを掘り下げなかったことは残念。さらに亮介と公平が主導した「奇跡」が、ヒハルと直接的に結び付かない。このため、ヒハルの存在は象徴的なものでしかなくなってしまう。あれじゃただの不思議ちゃんだ。

こうなると★3以下の点数しかつけられないほどダメダメな映画だけど、二時間半近い時間を長く感じないほどに、俺はこの作品世界に心地よく浸ることができた。馬酔村はどこかつかみどころのない村で異国情緒すら感じる。そんな雰囲気に惹かれてしまった。決してありそうだと思えるような現実感のある村ではない。大人になった亮介を演じる柏原崇が映画が作られた2007年の時点で30歳なので、馬酔村の出来事は1990年前後が妥当だろう。そう考えるとますますこんな村はありえない。でも柏原崇が「君たちはこの話を信じてくれるかな?」というようにこの村を受け入れなければ、この映画はそもそも始まらない。

それと、予告編や宣伝の印象だと主人公の子供たち三人が奇跡を起こす物語であるかのような印象を受けたけど、これは明らかに大人向けファンタジーだ。それを印象付けるのが亮介の父と公平の父のエピソード。亮介の父はかつて村から追い出された人間だ。その疎外感が余計に空港建設推進へと彼を突き動かしたのだろう。そんな亮介の父は、公平の父と再会することで馬酔村での遠き日々を思い出す。本来なら敵味方の立場関係である二人は、子供のころの気持ちのままで語り合う。それを描いた上で、二人の息子である亮介と公平が「俺たちで村を守るんだ!奇跡を起こそうぜ!」と言ってあのイタズラを挙行する満月の夜を迎える。遠い昔の父親たちの姿をも体現するかのように。どう考えたって子供目線で作られてはいない。「郷愁に浸れ」「信じることの大切さを思い出せ」と言ってるかのような作りだ。

プロットが同じでもメインの子役三人だけを追いまわすことで違うタイプの映画だって作れたんだろう。けれど敢えてそうしなかったのは行定の挑戦だろう。長期構想の末に完成した作品のはずが、構想が大きくなりすぎてまとまらなかったのか、作品としては失敗した点のほうが多かった。興行的にも明らかに失敗した。でもまぁ、俺は結構好きだった。行定が目指したかったものはなんとなくわかる。

一応、主演ということになっている神木隆之介は演技は安定しているが、数年前に映画やドラマで見せたほどの存在感というか魅力を感じなかった。見せ場の少ない演出が原因なのか、変声期を経て『お父さんのバックドロップ』『妖怪大戦争』のころの異常なまでの可愛らしさを失ったのが原因か。役者としての裁量が問われていくのはこれからだろう。頑張れ。ささの友間は神木の引き立て役かと思いきや、思いのほか好演。『SAYURI』も観てないので、大後寿々花 に至っては評価不能w

そうそう、一人で考えていたら面白い話があった。あの村のギャングのボスは当時20代ってとこだろう。彼はソフィー・マルソーをオカズにしていたと言っていた。ソフィー・マルソーが大人気だったのは1980年代前半のことである。ここからも物語の舞台が1990年前後であると推測されるが、行定勲は1968年生まれである・・・ソフィー・マルソーってお前のコトかよ、行定!!

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)テトラ 水那岐[*]

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