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[コメント] サマリア(2004/韓国)

自分の決意通り、聖女にして援交少女であることを、何の迷いもなく実現させてみせるチェヨン。それに対し、凡俗であることから逃れられないヨジン父子は、あがき続けながら高みに至ろうとする。それが凡人の悲しみだが、義務でもある。
水那岐

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「私はバスミルダになるわ」とチェヨンは事もなげに言い放つ。娼婦でありながら幸福を説いた伝説の女性の名に恥じることなく、彼女は寂しい男たちに微笑と幸福を振りまく(それがヨジンとの海外旅行の費用を稼ぐため、という理由であるにも関わらず)。その姿は彼女の行為を嫌悪するヨジンには濁ったフィルターがかかって見えるのだろうが、事故から死に瀕したチェヨンが、最後に抱いてくれた作曲家の名をいとおしげに呼ぶことで、一切嘘のない生き方だったことが理解される(事実、チェヨン役のソ・ミンジョン〈ハン・ヨルム〉はベビーフェイスの大人であったからこそ、この難役をこなせたのだろう。彼女は期待株である)。

彼女の鎮魂のために、ヨジンはメモされた男たちに次々と抱かれ、チェヨンに渡された口実としての金を返してゆく(この行為と、ユダヤ人と敵対しながらイエスとの会話によって帰依してゆく「良きサマリヤ人」は結びつけるのに時間を要したのだが)。それはしかし、決してチェヨンの域に到達することはできない演技であり、絶えず微笑を浮かべていたチェヨンを真似た笑いは、あるいは嘲笑であるようにとられてしまう。そして、その言動からキリスト者と判る父の絶望と怒りを引き出してゆく。父は刑事としての自分の正義を捨ててまで「娘を陵辱した」男たちに復讐を重ね、ヨジンの贖罪行為を図らずも無にしてしまう。かれら親子はチェヨンに較べて限りなく人間的であり、そうであるがために常人の陥りやすい袋小路へと入ってゆく。

おのれの行為を自首した父に置いてゆかれたヨジンが、かけがえのないふたりの喪失から立ち直ってゆけるかどうかを、この物語は語っていない。彼女の前には、人間としての父が一生を賭して用意した道が用意されているだけだ。彼女がゆく道は苦難と屈辱に満ちたものであるだろう。 だが、彼女はいずれ救済に辿りつくだろう。それがいかなる形をとるかは判らないが、残された平凡な娘は選択した道を見誤ってはいない筈だからだ。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)死ぬまでシネマ[*] ペペロンチーノ[*]

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