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[コメント] 茶の味(2003/日)

乙”な映画。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ストーリーは無くとも物語はある、クラシカルなホームドラマの構成で、かなり本気で小津を意識しているようだ。しかし、小津がディテールや設定において一切奇をてらうことなく、それこそどこにでもいるキャラクターの誰でも言うような台詞、誰でもするような日常動作のみで孤高の映画空間を紡いでいたことを考えると、この映画に出てきたキャラクターは誰も彼もが特殊で、考えようによっては小津から最も遠い映画なのかも知れない。

小津の孤高とは何だったのか?この映画の特殊とは何か?

小津が描いたどこにでもいる人々の誰でもするような言動は、しかし執拗なまでのバストショットの切り替えしにより一種異様にさえ感じられる空間を立ち上げつつ、コミュニケーションの本質を浮き彫りにする。キャラクターなど独特である必要はどこにもない、ただ彼らが仕事の同僚と、お隣さんと、そして家族と繰り広げるコミュニケーションこそが、平穏な水面の下にミクロな摩擦を内包している。誰かの視点に立つことなく、全ての登場人物を公平に撮ればよい。さすれば、小さな小さな軋轢や摩擦が、水面に顔を出し、ぱっと波紋を広げる、それこそがドラマだ。キャラクターそのものではなく、彼らのコミュニケーションこそ無限の可能性を秘めた宇宙なのだ。

対して、この映画のキャラクターは特殊である。いや、「特殊」という言葉は適切ではないのだろう。或いは「どこにでもいる」といった形容詞も便宜的なものでしかない。言い換えるなら、この映画の登場人物たちは誰しも体内宇宙を持ち、そして他人とのコミュニケーションを自分に作用させることなく、自分の中で完結させていく。もっと言えば、互いに互いを思いやりながら、干渉はせず、ついぞ決定的な摩擦を引き起こすこともなく、共存というより、並存しあっている。摩擦こそがコミュニケーションだとすれば、この映画はコミュニケーションそのものを拒んでいる。そして、カメラは全ての人物を公平にとらえるのではなく、ワンシーンごとに主人公を立て、その視点を綴るばかりだ。そうして切り出された体内宇宙は確かに物語であるが、そこにドラマは立ち現れない。

もちろん、少年もドラマは見せなかった。彼はあの子に対し、自発的なコミュニケーションを一度も試みていない。極論すれば、自分を曝していない。雨の中、奇跡的に自身の願望を体現はしたが、しかし、彼女が壁当ての壁以上のリアクションを取らない以上、好ましい展開を見せる恋は相も変らぬ儚いものとしか見えない。

どのシーンも孤独であり、彼らは孤独だ。だが、えてして的を射ているのかもしれない。少なくとも作家からすれば確信的な代物だ。何故なら、全ての孤独が、最後に爺さんの「僕が君を見ていた」との無言のメッセージを内包した動く絵画に収斂していくのだから。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)IN4MATION[*] ina Yasu[*]

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