[コメント] 神の道化師、フランチェスコ(1950/伊)
以下キリスト教圏外の人間としての感想なので、ご了承ください。
フランチェスコというキリスト教徒からみてもかなり特異な人物を描くに際して、ロッセリーニ監督は聖人というよりはあくまで人間としての側からの視線を送っている。それはいたずらに奇跡や聖性を描写してないところからも明らか。
聖人にまつわりついている後の人間が持つ様々な思い入れを排除して、ある意味身包み剥がされたフランチェスコという人物の孤独な営みが見えてくる。そしてここから生まれてくるユーモアは人間的なものからズレたところで生まれてくるおかしさであり、哀しさはそのズレた行為がいかに真剣で切迫した思いからきているのか、といういたたまれなさに他ならない。
それでも自らの信じるものに同化しようとする、ある意味人間の側から見ると、人間性を失っていく無益とも思える行為をまっとうしようとすることに、その思いの真剣さからある種の神々しさというか、オーラみたいなものを感じざるを得ないのだ。
これはその行為自体に人智の及ばない奇跡とかを付加しないことで、初めて見えるもので、そして思いが純粋であればあるほど聖人とは行為の結果が神々しいのではなくて、行為そのものとその姿勢が神々しいということを教えてくれる。それを描くのに際して、キリストとか仏陀とか、生まれながらに選ばれたといわれているような人物ではなくて、あくまで人間的な世界に身を浸してたことのあるフランチェスコという人物は、格好の素材なのだと思う。
映像の美しさも素晴らしいが、フランチェスコの行為の描きかたがあまりに美しいので、大地も風も雪もそれに共鳴するように美しく思えてくる。フランチェスコあっての世界の美しさ。ここにある映像美の質感にそのような物を感じてしまう。たとえて言うと、『ノスタルジア』の中に出てくるろうそくを持って水を渡るあの人物と、それをとりまく風景に同質のものを感じる。
勉強不足なのでイタリアのネオレアリスモが何たるかをよく知らないが、この映画のリアリズムは素晴らしいと思う。設定や本物らしい舞台やセリフを用意する外枠のリアリズムではなくて、その前に視線がリアリズムがなくてはいけないという事。その「眼差しのリアリズム」は、虚構であろうとカメラの向こう側の世界をそのまま伝えようとする人間の誠意として伝わってくる。
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