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[コメント] キリング・フィールド(1984/英=米)

そもそもジョフェ監督はドキュメンタリー出身だそうで、歴史を精緻に描く手法が上手く活きてます。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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 ピューリッツァー賞受賞者である新聞記者シドニー=シャンバーグの回想録を元に、近代東洋の中で激動の時代を駆け抜けたカンボジアの歴史を下敷きにした人間ドラマ。1975年4月17日にカンボジア全土を掌握したクメール・ルージュは、完全なる共産国家を作り出そうとし、その結果、資産家や政治家はおろか、政府に反抗的な知識人を次々と粛正していった。この時代に、将来国を担っていくはずの有能な人材がばっさりと切られてしまったため、今も尚カンボジアは苦しんでいる。

 その分、話は大変重いものになっているが、本作の面白いところはそれを二部構成としたことでメリハリを付けたところにあるだろう。

 最初の第一部ではウォーターストン演じるシャンバーグの記者としての実体験が。そして第二部では彼の去った後のカンボジアの状況として。

 この第一部と第二部は質的に大きく違う。第一部はシャンバーグが実際に見聞したカンボジアの事が描かれているため、実質アメリカ人から観たカンボジアの状況ということになるし、ここでのシャンバーグは基本的には傍観者であり、他人であり続ける。勿論危機に陥ることもあるが、それは自分の国で起こったものではない。という前提があるので、あたかも記事を書くかのように報告していく。ここではリアリティは非常に高い。

 一方第二部になると、今度は第一部の脇役だったプランが中心となった物語展開となる。ここにおいて、悪い言い方をすれば実録からファンタジーへと転換していく。ここにおいてリアリティよりも描写と物語性の方が重要になっていくのだが、前半でややたるみがちな物語が後半になって見栄えが増していく。人間の残酷性や、どんな所にあっても人間の思いやりがあることが強調されることになる。ここでの描写は又聞きのため、描写に容赦がない。クメール・ルージュに引っ張られて、何の意味もなく殺されてしまう村人のシーンもそうだが、圧巻は道や田んぼに死体がごろごろ転がっていて、そこをとぼとぼと歩くシーンだろう。黎明の中、徐々に辺りが明るくなっていくと、そこには…と言うのは、幻想的であると共に、情け容赦のない現実を問いかけてるようだ(ファンタジーが現実を問うというのは皮肉でもあるのだが)。

 この二重構造は作り方を間違えると物語が分離してしまう。本作も実はそうなりかけているのだが、前半部分の主役であるウォーターストンが展開をしめ、彼自身が何もしてなかったのではない。と言う意地を見せたのことで、ギリギリのところでちゃんと一本化させることが出来ていた。ウォーターストン演じるシャンバーグには、プランを助ける義務などない。いや、彼の願いを聞き入れて彼の家族を逃がしてもいるのだから、義務はもう果たしているとも言える。しかし、彼はそれでも負い目を感じ続けている。それは最後までプランをつきあわせたのは自分自身だというもの。理性的にはいくらそれを否定しても、やはり彼を求めずにはいられない。そして一方ではプランの方も、強制労働の中、シャンバーグに語りかけ続けている。彼が理性を失わずにいられたのはそのお陰で、たとえ存在しなくても、シャンバーグが中心である。としている。そんな理性とは異なる、人を思う心がつないでいる(だからファンタジーなんだが)。これがあったから映画は破綻せずに終わることが出来た。

 虚々実々取り入れという形ではあるが、歴史を切り取ってきちんと一個の作品に出来たという事は評価して余りあるだろう。

 プラン役のニョールはプロの俳優ではなく、実際にポル・ポト政権下での難民。たまたまカンボジア人の友人の結婚式に出席したところをスカウトされる。だからここでの迫真の演技を可能とした。素人俳優として『我等の生涯の最良の年』(1946)のハロルド=ラッセル以来となるオスカーを得たが、1996年に何者かによって殺されている。又本作の脚本を書いたブルース=ロビンソンは元俳優だが、脚本に意欲を持っていたところを製作者デイヴィット=パットナムにより見いだされ、本作の脚本を担当することが出来た。

(評価:★5)

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